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安徳天皇(あんとくてんのう)は何の神様?鎮魂の信仰と壇ノ浦の伝承・墓所 | 神様図鑑

安徳天皇アントクテンノウは、壇ノ浦で亡くなった幼い天皇を慰める信仰から祀られ、水天宮では水の神や子供の守護神として敬われている存在です。山口県下関市の赤間神宮をはじめ、各地の水天宮で祈りが受け継がれています。神として祀られた経緯から、平家との血縁関係、入水の伝承、墓所と子孫説まで紹介します。

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安徳天皇アントクテンノウは何の神様?

安徳天皇アントクテンノウは、源平の争乱で幼くして亡くなった第81代天皇で、その霊を慰め、安らかに鎮めるために祀られた神様です。死者の供養と鎮魂を出発点として、赤間神宮の祭神となり、水天宮では水の恵みと子供の成長を願う信仰にも結びつきました。

1185年の壇ノ浦の戦いの後、朝廷では天皇と戦没者を弔うため、長門国に供養の堂を建てることが話し合われました。当時は、不遇の死を遂げた人の霊が災いをもたらすことを恐れ、手厚く供養する考え方がありました。安徳天皇アントクテンノウの祭祀にも、幼帝への哀悼と、霊を鎮めて世の安定を願う祈りが重なっています。

赤間神宮の由緒では、1191年に朝廷の命で御影堂が建てられたとされています。阿弥陀寺では天皇の姿を表す御影を祀り、供養を続けました。明治時代の神仏分離で寺院は廃され、1875年に赤間宮、1940年に赤間神宮となりました。

また、筑後川のほとりに起こった水天宮では、安徳天皇アントクテンノウを母や祖母とともに祀っています。水の恵みや安産、子供の無事を願う信仰が、久留米から各地へ広まりました。現在も赤間神宮の追悼の祭りと、水天宮の日々の祈願の両方に、安徳天皇アントクテンノウを敬う信仰が残っています。

安徳天皇アントクテンノウの別名

安徳天皇アントクテンノウは、安徳帝アントクテイとも呼ばれます。生前の個人名である諱は言仁トキヒトで、一般に「ときひと」と読みます。天皇としての名、個人名、神としての呼び名には、それぞれ次のような違いがあります。

呼び名の種類名称と意味
天皇としての呼称安徳天皇アントクテンノウ、安徳帝アントクテイ。歴史や伝承で用いられる呼び名です。
個人名言仁トキヒト。高倉天皇タカクラテンノウの第一皇子として生まれたときの名です。
信仰上の尊称水天皇大神スイテンノウオオカミ。赤間神宮で祭神を敬って用いられる呼び名です。

赤間神宮の水庭は、この「水天皇大神スイテンノウオオカミ」という尊称にちなんで設けられています。

安徳天皇アントクテンノウの御神格・ご利益・ご神徳

安徳天皇アントクテンノウへの祈りには、天皇の霊を慰める祭祀と、水や子供を守る水天宮信仰があります。神社によって祈願の内容や、一緒に祀る神様は異なります。

安徳天皇アントクテンノウの御神格

項目内容
御神格鎮魂の祭祀を受ける天皇神。水天宮では、他の祭神とともに水の神・子供の守護神として信仰されています。

久留米の水天宮は、農業・漁業・船舶に携わる人々から、水の神として信仰されてきました。田畑を潤す水は暮らしを支えますが、洪水や船の事故とも隣り合わせです。水の恵みを受け、水難を避けたいという願いが、川辺の祭祀を支えてきました。

水天宮では、宇宙の始まりに現れる神である天御中主神アメノミナカヌシも、安徳天皇アントクテンノウらとともに祀られています。水天宮全体に受け継がれるご神徳には、このような複数の祭神への信仰が重なっています。

安徳天皇アントクテンノウのご利益・ご神徳

項目内容
ご利益水天宮では安産、子授け、子供の無事成長、水難除け、海上安全。赤間神宮では安産、家内安全、厄除けなどを祈願します。
ご神徳水天宮の信仰では、水の恵みを授け、暮らしと船の行き来を守る働き、出産や子育てを見守る働きが敬われています。

久留米の水天宮には、安産祈願からお宮参り、初誕生祭、七五三へと、子供の誕生と成長の節目に参拝する習わしがあります。安産祈願で戌の日が選ばれるのは、犬が多産で安産とされることにあやかったものです。

水難除けの信仰は、川の工事にも結びつきました。愛媛県東温市の水天宮の由緒では、1602年に川の付け替え工事の安全を願い、久留米から水天宮を迎えたと伝えています。農地を潤す水と水害を防ぐ祈りが、地域の神社の由緒にも残されています。

安徳天皇アントクテンノウの家系図・関係する神々

安徳天皇アントクテンノウの父は高倉天皇タカクラテンノウ、母は平徳子タイラノトクコです。母は建礼門院ケンレイモンインの名でも知られ、平清盛タイラノキヨモリと平時子タイラノトキコの娘にあたります。天皇の家と平家を結ぶ婚姻から生まれた皇子で、母方の祖父である平清盛タイラノキヨモリの後押しを受けて即位しました。

関係人物名・説明
父高倉天皇タカクラテンノウ。安徳天皇アントクテンノウに皇位を譲った第80代天皇です。
母平徳子タイラノトクコ(建礼門院ケンレイモンイン)。水天宮では高倉平中宮タカクラタイラノチュウグウとも表記されます。
母方の祖父平清盛タイラノキヨモリ。娘の徳子トクコを高倉天皇タカクラテンノウに嫁がせ、外祖父として幼い天皇を支えました。
母方の祖母平時子タイラノトキコ(二位の尼ニイノアマ)。壇ノ浦で安徳天皇アントクテンノウを抱いて入水したと伝えられます。
異母弟後鳥羽天皇ゴトバテンノウ。父は同じ高倉天皇タカクラテンノウで、母は藤原殖子フジワラノショクシです。

1183年、平家が安徳天皇アントクテンノウとともに都を離れた後、京都では後鳥羽天皇ゴトバテンノウが皇位につきました。安徳天皇アントクテンノウが西国にいる間、二人の天皇が並び立つ状態が続きます。母の建礼門院ケンレイモンインは壇ノ浦で救助され、京都の大原で天皇と平家一門を弔いました。

安徳天皇アントクテンノウの子孫は現在もいる?

安徳天皇アントクテンノウは幼くして亡くなり、歴史上、妻や子の存在は確認されていません。本人から子、孫へと続く系譜をたどって、現在の子孫を確定することもできません。

一方、鹿児島県の硫黄島には、壇ノ浦から逃れた安徳天皇アントクテンノウが島で暮らしたという伝説があり、子孫と伝わる家が墓所を守ってきたと紹介されています。

⇒【三島村】硫黄島に伝わる歴史・伝説の紹介はこちら

安徳天皇アントクテンノウの神話・伝承

安徳天皇アントクテンノウの最期は、壇ノ浦の戦いを描く『平家物語』のよく知られた場面です。幼帝と祖母のやり取りは、史実を題材にした軍記物語の中で語られています。

壇ノ浦での死因と入水

安徳天皇アントクテンノウは1185年の旧暦3月24日、壇ノ浦の戦いで平家が敗れた際に入水し、数え8歳で亡くなりました。祖母の二位の尼ニイノアマに抱かれて海へ入ったと伝えられています。幼い天皇は、平家一門とともに都を離れ、各地を移りながら戦乱に巻き込まれていました。

『平家物語』巻十一「先帝身投」では、二位の尼ニイノアマが敵の手にかかることを拒み、幼帝を抱いて船端へ進む姿が描かれています。

船の上の小さな手――『平家物語』「先帝身投」

以下は、原典で確認できる出来事をもとに、現代の読み物として意訳・再構成しています。原文の逐語訳ではありません。

船板を踏む音が、さっきより近い。安徳天皇アントクテンノウが顔を上げると、周りの大人たちは海の同じ方角を見つめていた。呼び合う声の合間に、船がきしむ音だけが長く聞こえた。

平知盛タイラノトモモリが小舟から移ってきた。もう先がないと告げるその声に、女房たちが戦の様子を問い重ねる。知盛トモモリは答える代わりに、東国の男たちに会えるだろうと乾いた笑いを漏らし、船の上を片づけ続けた。

安徳天皇アントクテンノウには、その笑いの意味が分からなかった。二位の尼ニイノアマが近づき、いつもより強く身体を抱き上げる。祖母は宝玉である神璽を脇に抱え、腰には宝剣を差していた。

「どこへ連れていくの」

問いかけると、二位の尼ニイノアマの顔がゆがんだ。口を開いても、すぐには声にならない。頬を伝った涙が、幼い天皇の衣に落ちた。

「まず、東をお向きなさい。伊勢の大神宮に、お別れを」

二位の尼ニイノアマは、続いて西を向き、念仏を唱えるように告げた。話のすべては分からなくても、祖母が泣いていることは分かる。安徳天皇アントクテンノウも涙を流しながら、小さな手を合わせた。

東へ向けた顔を、今度は西へ向ける。揺れる船の上で念仏の声がこぼれ、周りの叫び声にまぎれた。二位の尼ニイノアマはその小さな身体を抱き直し、船端へ進んだ。

「波の下にも、都はございます」

その言葉を残し、二位の尼ニイノアマは安徳天皇アントクテンノウを抱いたまま海へ入った。船べりから二人の姿が消えても、船の上の騒がしさは続いていた。幼い天皇が都へ帰る日は、ついに来なかった。

⇒【日本古典文学摘集】『平家物語』巻十一「先帝身投」原文はこちら

安徳天皇アントクテンノウの墓はどこ?阿弥陀寺陵と各地の伝承地

宮内庁が安徳天皇アントクテンノウの陵として管理しているのは、山口県下関市阿弥陀寺町の阿弥陀寺陵です。赤間神宮に隣接し、宮内庁の案内では陵の形は円丘とされています。赤間神宮への参拝とともに、天皇を偲んで訪ねられる場所です。

⇒【宮内庁】阿弥陀寺陵の参拝案内はこちら

場所所在地と位置づけ
阿弥陀寺陵山口県下関市。宮内庁が安徳天皇アントクテンノウの陵として管理しています。
横倉山の陵墓参考地高知県越知町。宮内庁所轄の陵墓参考地で、天皇がこの地で暮らしたという伝承があります。
硫黄島の墓所鹿児島県三島村。天皇が島へ逃れ、生涯を送ったという伝説に結びつく墓所です。

陵墓参考地とは、皇室関係者の墓と考えられるものの、葬られた人物を特定する確かな史料が得られていない場所です。

横倉山や硫黄島の伝承地は、安徳天皇アントクテンノウが壇ノ浦を生き延びたという話に結びついています。横倉山には天皇が従者と蹴鞠をしたという言い伝えがあり、硫黄島には住まいとされる黒木御所跡も残っています。

安徳天皇アントクテンノウゆかりの神社・祀られている神社

安徳天皇アントクテンノウを祀る神社には、壇ノ浦に近い下関で鎮魂を受け継ぐ赤間神宮と、久留米を中心に広まった水天宮があります。さらに、生存伝説を伝える土地にも祭神として迎えられています。由緒と祭神の組み合わせには、地域ごとの特徴があります。

赤間神宮|山口県下関市

赤間神宮は、第81代の安徳天皇アントクテンノウを祭神として祀る神社です。御影堂で天皇を供養した阿弥陀寺の歴史を受け継ぎ、関門海峡を望む場所に鎮座しています。龍宮造りの社殿と朱塗りの水天門が、海に縁の深い祭神を偲ばせます。

例年5月2日には阿弥陀寺陵で御陵前祭、3日には上﨟参拝が行われます。上﨟参拝は、平家滅亡後も生き残った女官たちが天皇を礼拝したことに由来すると伝えられる行事です。宝物殿には、長門本『平家物語』や『安徳天皇アントクテンノウ縁起絵図』など、供養と語りの歴史を伝える品々が受け継がれています。

⇒ 赤間神宮のご利益・属性・見どころを詳しく見る

水天宮|福岡県久留米市

筑後川に面する久留米の水天宮は、各地の水天宮の総本宮です。天御中主神アメノミナカヌシ、安徳天皇アントクテンノウ、高倉平中宮タカクラタイラノチュウグウ、二位の尼ニイノアマの四柱を祀っています。由緒では、平家に仕えた女官の按察使局伊勢アゼチノツボネイセが壇ノ浦の戦いの後に筑後へ逃れ、1190年に水天宮を祀ったとされています。

伊勢イセは出家して千代チヨと名乗り、周辺の人々のために祈りを捧げ、尼御前アマゴゼンと敬われました。1650年には久留米藩主の有馬忠頼アリマタダヨリから現在の社地と社殿の寄進を受けています。夏の祭りで奉奏される船太鼓には、壇ノ浦で幼帝の死を悼んだ兵士たちが船べりをたたいたという故事が伝えられています。

⇒ 水天宮のご利益・属性・見どころを詳しく見る

水天宮|東京都中央区

日本橋蛎殻町の水天宮は、安徳天皇アントクテンノウ、建礼門院ケンレイモンイン、二位の尼ニイノアマを、天御中主大神アメノミナカヌシとともに祀っています。1818年、久留米藩主の有馬頼徳アリマヨリノリが、国元の水天宮から江戸の藩邸へ分霊を迎えたのが始まりです。藩邸内の神社でしたが、毎月5日に門を開いて庶民の参拝を認め、「情け有馬の水天宮」と親しまれました。

1872年に現在の日本橋蛎殻町へ移り、安産や子授けを願う参拝が続いています。境内の「子宝いぬ」は、犬の多産・安産にあやかる信仰を形にしたものです。母犬と子犬の像を囲む十二支のうち、自分の干支を撫でて、安産や子供の成長を願います。

⇒水天宮公式サイトはこちら

安徳天皇アントクテンノウが祀られている主な神社

このほかにも、次の神社で安徳天皇アントクテンノウが祀られています。本牧の水天宮は本牧神社の境内社です。硫黄島の熊野神社は、島の安徳天皇アントクテンノウ伝説とともに伝えられ、県神社庁の紹介で祭神に安徳天皇アントクテンノウが挙げられています。

神社名住所
金沢水天宮(安江八幡宮)石川県金沢市
水天宮(本牧神社境内)神奈川県横浜市中区
水天宮愛媛県東温市
熊野神社(硫黄島)鹿児島県三島村
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