後醍醐天皇は、建武の新政を進めた功績と、困難の中でも志を貫いた姿をたたえて祀られる天皇です。鎌倉幕府を倒した後、吉野に南朝を開き、その足跡は各地の神社や御陵に残されています。何をした人物なのか、なぜ神として敬われるのかを、隠岐への配流や足利尊氏との関係とともに紹介します。
後醍醐天皇は何の神様?
後醍醐天皇は、天皇自身が政治を行う「親政」を目指し、建武中興の天皇として祀られている人物神です。吉野神宮では、国と民の安寧を願う心、苦境にあっても志を失わなかった生き方が敬われています。
その祭祀が大きく整えられたのは明治時代です。明治天皇は建武中興の事績をしのび、吉野に後醍醐天皇を祀る神宮を創建するよう命じました。天皇を中心とする政治を目指した事績が明治維新につながるものと受け止められ、その功績を後世へ伝える場が設けられたのです。
一方、吉野の皇居跡や隠岐の滞在伝承地にも、後醍醐天皇を祭神とする神社があります。国の歴史として功績をたたえる祭祀と、地域に残る天皇の足跡を守る信仰が重なり、現在も参拝や祭礼が続いています。
後醍醐天皇の別名
後醍醐天皇は「後醍醐帝」とも呼ばれます。個人の名に当たる諱は「尊治」です。
| 区分 | 名称 |
|---|---|
| 天皇としての呼び名 | 後醍醐天皇、後醍醐帝 |
| 諱 | 尊治 |
「後醍醐」という名は、生前に自ら選んだとされています。醍醐天皇と村上天皇の治世を指す「延喜・天暦の治」を理想とし、自身も天皇が直接政治を担うことを目指しました。
後醍醐天皇は何をした人?生きた時代と建武の新政
後醍醐天皇は1288年に生まれ、1339年に亡くなった第96代天皇です。鎌倉時代の末期から南北朝時代の初めに生き、鎌倉幕府の打倒、建武の新政、吉野での南朝の成立を主導しました。
鎌倉末期から南北朝へ
1318年に即位し、1321年には、父の後宇多天皇が退位後も政治を主導する院政が終わり、自ら政治を行うようになります。当時は朝廷と鎌倉幕府が並び立ち、皇位の継承にも幕府が関与していました。後醍醐天皇は幕府を倒し、朝廷へ政治の権限を集めようとしました。
| 年 | 主な出来事 |
|---|---|
| 1318年 | 天皇に即位 |
| 1331年 | 元弘の変で幕府と戦い、敗れる |
| 1332年 | 隠岐へ流される |
| 1333年 | 隠岐を脱出。鎌倉幕府が滅び、帰京して新政を始める |
| 1335年 | 足利尊氏が建武政権から離反 |
| 1336年 | 吉野に移り、京都の北朝と対立する南朝を開く |
| 1339年 | 皇位を後村上天皇へ譲り、吉野で死去 |
建武の新政は1333年に始まり、翌1334年に年号が「建武」に改められました。土地を支配する権利を天皇の命令書である「綸旨」によって認め、土地争いなどの訴えを裁く「雑訴決断所」を設けました。武士や寺社が持つ土地の権利を朝廷で把握し、天皇の判断を政治の中心に置こうとしたのです。
ただし、多くの権利確認を綸旨に集中させたことで混乱が生まれ、新しい政治への不満が広がりました。後醍醐天皇は宮中の儀式の復興にも力を注ぎ、1334年には朝廷の年中行事を記した『建武年中行事』を著しています。
隠岐への島流しと脱出
隠岐へ流された理由は、鎌倉幕府に対する討幕運動でした。1331年の元弘の変で京都を出た後醍醐天皇は、現在の京都府笠置町にある笠置山に立てこもりましたが、幕府軍に敗れて捕らえられます。翌1332年、現在の島根県の隠岐諸島へ送られました。
配流中も、討幕への働きかけは続いていました。島根県の鰐淵寺には、討幕が成就した際に薬師堂を造営することを約した、1332年の後醍醐天皇の願文が伝わっています。1333年には隠岐を脱出し、伯耆国、現在の鳥取県の中・西部で名和長年の支援を受け、各地へ挙兵を呼びかけました。
隠岐での滞在先には、西ノ島の黒木御所と島後の国分寺を挙げる説があります。黒木御所跡では、天皇が過ごしたという土地の伝承と祭祀が今も守られています。
足利尊氏との協力と対立
足利尊氏は、鎌倉幕府を倒す際に後醍醐天皇へ協力した武将です。もとの名は足利高氏で、倒幕の功績により後醍醐天皇の諱「尊治」から一字を賜り、「尊氏」と改めました。
両者の対立が表面化したのは、1335年の中先代の乱です。北条氏の残党に奪われた鎌倉を取り戻した尊氏は、そのまま東国で勢力を固め、建武政権から離反しました。翌1336年の湊川の戦いで楠木正成ら天皇方が敗れ、尊氏は京都に光明天皇を立てます。
後醍醐天皇は京都を脱出して吉野に朝廷を開き、京都の北朝と吉野の南朝が並び立つようになりました。両者は政治と軍事で争いましたが、天皇が亡くなると、尊氏はその菩提を弔う天龍寺の創建を進めます。夢窓疎石を開山とするこの寺は、1339年に創建され、1345年に落慶しました。
後醍醐天皇の御神格・ご利益・ご神徳
後醍醐天皇への信仰では、国の安寧を願う天皇の徳や、困難を乗り越えようとする姿が大切にされています。現在の吉野神宮には、良縁を願って参拝する人々も訪れます。
後醍醐天皇の御神格
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 御神格 | 建武中興の功績をたたえて祀られる天皇、国と民の安寧を願う人物神 |
建武中興は、天皇親政の回復を目指した後醍醐天皇の事業をたたえる呼び方です。後醍醐天皇は自らの和歌にも、世が治まり、人々が安らかに暮らせるよう願う気持ちを詠んでいます。吉野神宮では、政治を担った功績とともに、この国と民を思う心を伝えています。
後醍醐天皇のご利益・ご神徳
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ご利益 | 縁結び・良縁祈願(吉野神宮) |
| ご神徳 | 国と民の安寧を願う徳、困難の中でも志を貫く不屈の精神(吉野神宮で敬われる姿) |
吉野神宮では良縁を願う参拝が行われ、結縁絵馬や恋みくじも授与されています。絵馬は二枚を重ねる形で、書いた願いが外から見えにくい工夫がなされています。
また、吉野神宮の宮司は後醍醐天皇について、苦難を受け止めながら未来のために進んだ「折れない心」を持つ天皇として語っています。流罪や都を離れる経験を経ても志を保った生涯が、困難を乗り越える姿として伝えられています。
後醍醐天皇の家系図・関係する人々
後醍醐天皇の父は後宇多天皇、母は談天門院と呼ばれた藤原忠子です。皇子たちは討幕や南朝の活動を担い、後村上天皇が皇位を継ぎました。ここでは、生涯との関わりが深い家族を挙げます。
| 関係 | 人物・説明 |
|---|---|
| 父 | 後宇多天皇。後醍醐天皇の即位後も院政を行った天皇 |
| 母 | 藤原忠子。院号は談天門院 |
| 妻(中宮) | 西園寺禧子。皇后にあたる中宮の位にあった女性 |
| 妃 | 阿野廉子。隠岐や吉野へも同行し、後村上天皇の母となった女性 |
| 子 | 護良親王。討幕運動を担った皇子 |
| 子 | 後村上天皇。吉野で皇位を継いだ皇子 |
| 兄 | 後二条天皇。父を同じくする異母兄 |
後村上天皇は、親王時代には義良親王と呼ばれていました。1339年に父から皇位を受け継ぎ、南朝を率いることになります。母の阿野廉子も吉野にあって、南朝の宮廷を支えました。
後醍醐天皇の伝承
後世の軍記物語『太平記』は、吉野で病に倒れた後醍醐天皇が、最期まで京都へ戻る願いを手放さなかったと描いています。ここでは巻第二十一「先帝崩御事」をもとに、その臨終の場面をたどります。
最後まで京都を望む
以下は、原典で確認できる出来事をもとに、現代の読み物として意訳・再構成しています。原文の逐語訳ではありません。
声を出すまでに、ひと息待たなければならなかった。後醍醐天皇は唇を開き、枕元の忠雲僧正へ目を向ける。忠雲は何か言いかけてうつむき、こらえきれなかった涙をぬぐった。
祈りを重ねても、薬を尽くしても、身体から力が抜けていく。京都へ帰るために耐えてきたのに、身体のほうが先に歩みを止めようとしていた。忠雲が膝を進め、声を落とした。
「心に懸かることは、すべてお話しください。そのうえで、どうか後の世の安らぎを」
後醍醐天皇は、すぐには答えなかった。もう位を手放し、死を迎える支度をせよというのだ。その言葉を聞きながら、頭に浮かぶのは、帰れないままの京都だった。
財宝も王位も、死の旅には連れていけない。それは知っている。けれど、胸の内にはどうしても置いていけないものがあった。
「敵を退け、世を平らかにしたい。後の世にまで残る思いがあるとすれば、それだけだ」
声を絞ると、息が途切れた。忠雲が身を寄せるのを見て、後醍醐天皇は顔を上げる。まだ、伝えておかなければならない。
「第七の宮に位を継がせよ。臣たちは力を合わせ、国を治めるのだ」
新田義貞と脇屋義助の働きに報い、その子孫が道を外さないかぎり、国を支える臣として重く用いること。後醍醐天皇は、残される者たちへ一つずつ言い聞かせた。弱っていく声の中にも、命じる力は残っていた。
言うべきことを伝えても、まだ目を閉じられなかった。山の向こうに京都がある。ここからは何も見えないのに、帰りたいという思いだけが、はっきりとそこへ向かっていた。
「この骨が南の山の苔に埋まろうとも、魂は北の都を望む」
後醍醐天皇は左手に法華経の第五巻を持ち、右手を剣に添えた。指に触れる剣の硬さを確かめながら、細く息をつなぐ。枕元の者たちは、その手から目を離せなかった。
八月十六日、夜も更けた丑の刻だった。息と息の間が長くなり、誰もが次の一息を待った。けれど、その胸が再び動くことはなかった。山の外はまだ暗く、京都へ続く方角も、同じ闇に包まれていた。
⇒【Wikisource】『太平記』巻第二十一「先帝崩御事」はこちら
後醍醐天皇の死去と墓・塔尾陵
後醍醐天皇は、延元4年(1339年)の旧暦8月16日、吉野で病のため亡くなりました。具体的な病名は分かっていません。『太平記』の剣と経巻を手にした最期は、天皇の遺志を印象深く伝える軍記の一場面です。
墓所は、奈良県吉野町の如意輪寺内にある塔尾陵です。宮内庁が管理する円丘の御陵で、本堂の背後の山に位置します。京都を望むという遺志にちなみ、北向きに葬られたと伝えられ、「北面の御陵」と呼ばれています。
如意輪寺は、後醍醐天皇の勅願寺と伝わる寺です。天皇の没後は菩提を弔い、御陵を守ってきました。
後醍醐天皇ゆかりの神社・祀られている神社
後醍醐天皇を祀る神社は、南朝の拠点となった吉野や、配流にまつわる隠岐・中国地方にあります。神社が建てられた背景には、建武中興の顕彰、皇居の記憶、滞在を伝える地域の由緒など、それぞれの土地との結びつきがあります。
吉野神宮(奈良県吉野町)
吉野神宮は、後醍醐天皇を祭神とする神社です。1889年に明治天皇の命によって創立が決まり、1892年の鎮座に際し、𠮷水神社で守られていた後醍醐天皇の尊像が移されました。この像は、皇子の後村上天皇が刻んだものと伝えられています。
現在の社殿は1932年に改築が完成した総檜造りで、本殿から神門へと続く建物は京都のある北を向いています。春の大祭は4月29日、秋の大祭は9月27日です。境内には建武中興に尽くした七人を祀る三つの摂社があり、天皇と家臣の双方を顕彰しています。
𠮷水神社(奈良県吉野町)
𠮷水神社は、後醍醐天皇、楠木正成公、吉水宗信法印公を祀っています。もとは修験道の僧坊「吉水院」で、1336年に吉野へ入った後醍醐天皇を宗信が迎え、南朝の皇居となったと伝えられています。
明治の神仏分離を経て神社となり、1875年に現在の社名へ改められました。書院には「後醍醐天皇玉座の間」が伝わり、天皇を迎えた場所の記憶を残しています。
黒木神社(島根県西ノ島町)
黒木神社は、西ノ島町別府に鎮座し、後醍醐天皇を主祭神としています。別府港を望む丘にあり、1332年に隠岐へ流された天皇が過ごしたと伝えられる「黒木御所」の地に建っています。
この地では、天皇の滞在から脱出に至るまでの伝承が受け継がれ、周辺にも御座所跡や腰掛け石などのゆかりの場所があります。近くの碧風館では、後醍醐天皇と黒木御所にまつわる資料が紹介されています。例祭は9月27日に行われます。
後醍醐天皇が祀られている主な神社
代表の三社のほか、隠岐へ向かう道中の滞在を伝える神社があります。
| 神社名 | 住所 |
|---|---|
| 後醍醐神社 | 岡山県新見市 |
後醍醐神社は新見市大佐大井野にあり、後醍醐天皇を祭神としています。境内には、天皇が食事をしたという「ご飯石」が伝わります。夏祭は旧暦6月21日、例祭は旧暦9月21日に行われます。
