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野見宿禰命(のみのすくねのみこと)は何の神様?相撲と埴輪の伝説・子孫・ゆかりの神社 | 神様図鑑

野見宿禰命ノミノスクネは、相撲の始祖として親しまれる神様です。強敵との力比べに勝った伝説に加え、人を生き埋めにする葬送に代わって埴輪を提案した人物としても知られています。力士たちの信仰、菅原道真公スガワラノミチザネへつながる子孫の伝承、各地に残る墓や神社を紹介します。

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野見宿禰命ノミノスクネは何の神様?

野見宿禰命ノミノスクネは、相撲の始祖・勝利の神として祀られる、古代の伝説上の人物です。『日本書紀』では出雲の勇士として登場し、垂仁天皇スイニンテンノウの前で当麻蹶速タイマノケハヤに勝ち、その後は天皇に仕えたと語られます。この勝負の伝説が、相撲を志す人々から祖神として敬われる由来になりました。

また、埴輪作りや天皇の葬儀に関わった土師氏(はじし)の祖先としても仰がれています。『日本書紀』は、生きた人の代わりに土の人形などを陵墓へ立てる方法を考え、土を扱う人々を率いる役に就いたと伝えています。土師氏から出た菅原氏の祖先としても信仰され、天満宮で祀られることがあります。

こうした祖先への信仰に加え、明治時代以降には相撲関係者が神社や記念碑を整え、相撲の神としてその功績を伝えてきました。現在も力士による参拝や奉納土俵入り、子どもたちの相撲を通じて敬われています。

野見宿禰命ノミノスクネは実在した?

野見宿禰命ノミノスクネが、伝説に語られるとおりの人物として実在したかは分かっていません。『日本書紀』に記された相撲の勝負や埴輪の考案は、古代の伝承として受け継がれてきた話です。生没年を確定できる同時代の記録や、本人と確定した墓はありません。

一方、古代の土師氏は、葬送や埴輪の製作に関わった氏族でした。野見宿禰命ノミノスクネの伝説は、一族が葬儀を担うようになった由来も語っています。各地の「相撲発祥の地」や墓所も、地域の伝承をもとに、後世の人々が大切に守ってきた場所です。

野見宿禰命ノミノスクネの別名

野見宿禰命ノミノスクネは「のみのすくねのみこと」と読みます。「命」を付けない野見宿禰ノミノスクネ、神として敬う野見宿禰神ノミノスクネなどの呼び方があり、「禰」を「祢」と書く表記も用いられます。

区分別名・異表記
基本の名と祭神名野見宿禰ノミノスクネ、野見宿禰命ノミノスクネ、野見宿禰神ノミノスクネ
字の異なる表記野見宿祢ノミノスクネ、野見宿祢神ノミノスクネ
別の呼び方大野見宿禰命オオノミスクネ

出雲大社の由緒では、第13代出雲国造(いずもこくそう)の襲髄命カネスネの別名が野見宿禰ノミノスクネとされています。出雲国造は、出雲大社の祭祀を受け継いできた家の長です。ここでは、相撲の祖である野見宿禰命ノミノスクネが、出雲大社の祭りを担ってきた一族の祖先としても敬われています。

野見宿禰命ノミノスクネの御神格・ご利益・ご神徳

野見宿禰命ノミノスクネには、相撲やスポーツで力を発揮したいと願う人々の信仰があります。埴輪を考案した知恵にも敬意が寄せられ、出雲大社では文武両道の神とされています。

野見宿禰命ノミノスクネの御神格

項目内容
御神格相撲の始祖、勝利の神、土師氏の祖神、文武両道の神

相撲の神という性格は、強さを競う勝負の伝説と、力士たちによる祭祀を背景にしています。土師氏の祖神としては、埴輪や陵墓を扱う仕事の始まりを伝える存在です。力比べの強さと葬送を改める知恵を備えた人物像が、文武両道という信仰にもつながっています。

野見宿禰命ノミノスクネのご利益・ご神徳

項目内容
ご利益必勝祈願、武芸・スポーツ上達、文武両道、子どもの健やかな成長
ご神徳相撲・武芸を志す人々の守護、力と知恵で人々を助ける働き、子どもの成長の守護

必勝や上達の祈りは、相撲で勝利した祖神にあやかるものです。島根県出雲市の沖洲天満宮でも、武芸・スポーツ上達や必勝祈願が案内されています。文武両道は出雲大社の信仰、子どもの成長は高槻の野見神社で行われる泣き相撲などに見られる祈りです。

東京の野見宿禰神社の勝守や合格御守は、両国国技館の相撲博物館で授与されています。

野見宿禰命ノミノスクネの家系図と子孫・関係する神々

野見宿禰命ノミノスクネは、天穂日命アメノホヒの子孫とされる土師氏の祖先です。『新撰姓氏録』には天穂日命アメノホヒの14世孫と記され、後世の系譜には父の名も伝わっています。

関係神名・人物名と説明
父(後世の系譜による)宇迦都久怒ウカツクヌ(鵜濡渟命ウカツクヌ)。1898年刊の『出雲国造系統伝略』では、野見宿禰ノミノスクネをその第2子としています。
遠祖天穂日命アメノホヒ。『新撰姓氏録』で14世孫とされる関係です。
子孫とされる氏族・人物土師氏、その一族から出た菅原氏、菅原道真公スガワラノミチザネ。何代も隔たった後裔として伝えられています。

父の名を伝えるこの系譜では、野見宿禰ノミノスクネは襲髄命カネスネとは別の人物と考えられています。出雲大社の由緒で両者を同じ人物とする説明とは、家系の伝え方が異なります。『日本書紀』の相撲・埴輪の話には、母や配偶者、直接の子の名は記されていません。

⇒【島根大学】野見宿禰ノミノスクネの系譜・伝承地を扱う研究論文はこちら

土師氏のなかから菅原氏が生まれ、平安時代には学問を家業とする一族として活躍しました。その代表が、学問の神として祀られる菅原道真公スガワラノミチザネです。奈良市の菅原天満宮では、天穂日命アメノホヒ・野見宿禰命ノミノスクネ・菅原道真公スガワラノミチザネを一系の三神として祀っています。

東京の野見宿禰神社が用いる梅鉢の社紋にも、梅を愛した菅原道真公スガワラノミチザネとのつながりがあります。相撲の神と学問の神が、祖先と子孫の伝承を通して結び付いているのです。

野見宿禰命ノミノスクネの神話・伝承

『日本書紀』には、野見宿禰ノミノスクネが当麻蹶速タイマノケハヤとの命を懸けた力比べに勝つ話と、埴輪を考案する話が記されています。

命を懸けた力比べ

以下は、原典で確認できる出来事をもとに、現代の読み物として意訳・再構成しています。原文の逐語訳ではありません。

「俺と力を比べる者はいないのか。生きるか死ぬか、それほどの勝負がしたい」当麻蹶速タイマノケハヤの声は、自分の強さを少しも疑っていなかった。角をへし折り、曲がった鉤を伸ばすほどの腕力を持つ男だ。目の前に立てば、たいていの者は言葉をのみ込んだ。

その評判を聞いた垂仁天皇スイニンテンノウが、家臣たちに尋ねた。「あの男に匹敵する者はいるか」。しばらくして、一人が進み出た。出雲には、野見宿禰ノミノスクネという勇士がいるという。

天皇の使いが走り、野見宿禰ノミノスクネは大和へ召し出された。相手の前に立つと、当麻蹶速タイマノケハヤの肩が大きく上下するのが見えた。目は笑っているのに、足はいつでも踏み込める位置にあった。

隙を見せれば、踏み込まれる。野見宿禰ノミノスクネは足の裏で地面を確かめ、相手から目を離さなかった。息を吸う音まで、妙にはっきり聞こえた。

当麻蹶速タイマノケハヤが足を振り上げた。野見宿禰ノミノスクネも蹴り返し、ぶつかった足から重い衝撃が伝わった。当麻蹶速タイマノケハヤは息を吐き、体を寄せて次の一撃を放った。

野見宿禰ノミノスクネも足を上げる。相手の脇へ入った蹴りに、骨の折れる鈍い手応えがあった。当麻蹶速タイマノケハヤの顔から笑みが消え、息が途中で詰まった。

崩れた体を前に、野見宿禰ノミノスクネは踏み込んだ。その足が腰を踏み折ると、当麻蹶速タイマノケハヤの体は地面へ沈み、もう立ち上がらなかった。ついさっきまで場を満たしていた男の息遣いが、途絶えていた。

野見宿禰ノミノスクネは荒い呼吸を整えながら、動かなくなった相手を見下ろした。勝負を望んだ声は、もう返ってこない。周りの者たちも、しばらく声を出せずにいた。

天皇は当麻蹶速タイマノケハヤの土地を野見宿禰ノミノスクネに与えた。野見宿禰ノミノスクネは大和にとどまり、朝廷に仕えることになった。踏みしめた土の感触を足に残したまま、出雲から来た男の新しい日々が始まった。

⇒【日本書紀】『日本書紀』巻第六・野見宿禰ノミノスクネの伝承はこちら

殉死に代わる埴輪を提案した伝説

もう一つの伝説は、葬儀のために人の命が奪われることから始まります。『日本書紀』の垂仁天皇スイニンテンノウ28年の記事では、天皇の弟・倭彦命ヤマトヒコの墓の周囲に近く仕えていた人々が生き埋めにされ、苦しむ声が何日も続いたと記されています。天皇はその声を聞いて悲しみ、殉死をやめるよう命じました。

4年後の32年、皇后の日葉酢媛命ヒバスヒメが亡くなると、野見宿禰ノミノスクネが新しい葬り方を提案します。出雲から土部(はじべ)という土を扱う人々100人を呼び寄せ、人や馬、さまざまな物を土で作らせたのです。天皇はこれを喜び、皇后の墓に立て、以後の陵墓にも用いるよう命じたといいます。

この功績によって、野見宿禰ノミノスクネは土部を率いる役に任じられ、土部臣(はじのおみ)の姓を与えられました。『日本書紀』は、この出来事を土師氏が天皇の葬儀を担うようになった由来として伝えています。

ただし、発掘された埴輪の始まりは、この伝説とは異なります。最初の埴輪は円筒形で、弥生時代後期に、現在の岡山県を中心とする吉備地方の墓に供えられた特殊な壺や台から発展しました。人物や馬の形の埴輪は後から現れるため、殉死する人の代わりに人物埴輪を作ったことが、埴輪全体の起源ではありません。

⇒【福岡市博物館】埴輪の起源についての解説はこちら

野見宿禰命ノミノスクネゆかりの神社・祀られている神社

野見宿禰命ノミノスクネは、相撲とのつながりが深い神社や、祖先・子孫をともに祀る天満宮などで信仰されています。出雲・大和・播磨には伝承地があり、東京には相撲関係者が創建した神社があります。

野見宿禰神社(東京都墨田区)

東京都墨田区亀沢に鎮座し、野見宿禰ノミノスクネを祀る神社です。明治時代、高砂浦五郎をはじめとする相撲関係者の尽力により、津軽藩の上屋敷跡に創建されました。関東大震災と東京大空襲で焼失した後、1953年に再建されています。

境内の歴代横綱記念碑も、再建に合わせて日本相撲協会が建立したものです。東京で大相撲の本場所が開かれる前には、協会の理事長や審判部長らが出席する例祭が行われ、新横綱の奉納土俵入りの場にもなっています。

⇒【日本相撲協会】野見宿禰神社の紹介はこちら

野見宿禰神社〈出雲大社境内〉(島根県出雲市)

島根県出雲市の出雲大社境内にある、野見宿禰ノミノスクネを祀る神社です。平成の大遷宮に際し、境内の相撲場の西側に建立されました。相撲やスポーツに打ち込む人々が、出雲ゆかりの祖神に祈る社です。

隣接する相撲場では、子どもや一般の選手が参加する大会も開かれています。2015年に始まった「野見宿禰わんぱく相撲大会出雲場所」は、相手を敬う礼節や勇気、勝負の楽しさと悔しさを学び、心身を育てることを目的としています。

⇒出雲大社公式サイトはこちら

⇒【出雲大社】野見宿禰ノミノスクネわんぱく相撲大会の開催記録はこちら

野見神社(大阪府高槻市)

大阪府高槻市野見町に鎮座し、野見宿禰命ノミノスクネと素盞嗚尊スサノオを祀る神社です。かつての高槻城三の丸に位置し、もとは牛頭天王ゴズテンノウを祀る社として城主らの崇敬を受けました。明治時代の初めに野見宿禰命ノミノスクネを合祀し、野見神社と改称しています。

奉納行事の泣き相撲では、赤ちゃんが神前で大きな声を上げ、健康と成長を祈ります。相撲の始祖を祀る信仰が、子どもの健やかな育ちを願う神事として受け継がれています。

⇒野見神社公式サイトはこちら

野見宿禰命ノミノスクネの墓はどこにある?

野見宿禰命ノミノスクネの墓と伝わる場所は、兵庫県たつの市、島根県松江市、奈良県桜井市などにあります。いずれも伝承の墓で、本人の埋葬を確定した場所ではありません。

たつの市の野見宿禰神社には、出雲との行き来の途中で病死したという『播磨国風土記』の話が伝わっています。出雲から来た人々が並び、川の石を手渡しして墓山を造ったため、「立野」と呼ばれたという地名の由来です。明治時代以降には墓の探索や整備が進められ、相撲関係者も奉納相撲などを通じて野見宿禰ノミノスクネをたたえてきました。

⇒【たつの市】野見宿禰神社・墓所の紹介はこちら

松江市宍道町の菅原天満宮にも、野見宿禰ノミノスクネの墳墓の伝承があります。また、桜井市出雲の十二柱神社入口には、野見宿禰ノミノスクネの五輪塔と呼ばれる鎌倉時代初期の石塔が残りますが、塔が造られたのは鎌倉時代で、野見宿禰ノミノスクネ本人の埋葬を裏づけるものではありません。

⇒【松江観光協会宍道町支部】菅原天満宮の紹介はこちら

⇒【桜井市】野見宿禰ノミノスクネの五輪塔の紹介はこちら

野見宿禰命ノミノスクネが祀られている主な神社

相撲に関わる社に加え、天穂日命アメノホヒや菅原道真公スガワラノミチザネとともに祖先神として祀る神社もあります。沖洲天満宮は、もとは野見宿禰命ノミノスクネを祀る土師神社と呼ばれ、後に菅原道真公スガワラノミチザネを合祀したと伝えられています。

神社名住所
菅原天満宮奈良県奈良市
菅原神社大阪府堺市
天満宮〈沖洲天満宮〉島根県出雲市
相撲神社奈良県桜井市
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