東郷平八郎は、日露戦争の日本海海戦で連合艦隊を率いた海軍軍人です。実在した人物ですが、死後は「東郷平八郎命」として神社に祀られ、現在は勝利や至誠の神として信仰されています。
なぜ一人の軍人が、死後に神として祀られるようになったのでしょうか。東郷平八郎が何をした人物なのか、日本海海戦での功績、死後に東郷神社が建てられた経緯、ご利益、名言、家族や死因まで紹介します。
東郷平八郎は何の神様?何をした人?
東郷平八郎は、日露戦争で連合艦隊司令長官を務め、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破った海軍軍人です。死後は「東郷平八郎命」として祀られ、現在は勝利や至誠の神として信仰されています。
1848年、薩摩藩士の家に生まれました。幕末には戊辰戦争に従軍し、明治維新後の1871年からイギリスへ留学します。帰国後は海軍軍人として経験を重ね、日清戦争では巡洋艦「浪速」の艦長を務めました。
1903年に連合艦隊司令長官となり、翌年に始まった日露戦争では旅順方面の海上作戦などを指揮します。そして1905年5月、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊と戦い、大きな勝利を収めました。
この勝利によって東郷平八郎は広く名を知られるようになります。戦後は海軍軍令部長などを務め、1913年には元帥となりました。1914年からは東宮御学問所総裁として、皇太子時代の昭和天皇の教育にも関わっています。
1934年に亡くなると、その功績と生涯を後世に残そうとする動きが広がりました。全国から神社創建を求める声と献金が集まり、1940年に東京の東郷神社が創建されています。
東郷平八郎はなぜ神様として祀られた?
東郷平八郎が神として祀られた背景には、日本海海戦での勝利と、日露戦争後に国民的英雄として広く知られるようになったことがあります。
さらに、死後には「東郷平八郎の徳を後世へ伝えたい」という声が全国から集まりました。こうした顕彰の動きが、東郷平八郎を祭神とする東郷神社の創建につながっています。
日本海海戦で国民的英雄となった
東郷平八郎の名前を広く知らしめたのが、1905年5月27日から28日に行われた日本海海戦です。
ロシアは日露戦争の戦況を立て直すため、ヨーロッパ方面にいたバルチック艦隊を極東へ送りました。東郷平八郎は連合艦隊司令長官として、この艦隊を対馬海峡付近で迎え撃ちます。
戦闘の結果、バルチック艦隊は大きな損害を受けました。日本海海戦は東郷平八郎の名と強く結びつき、日露戦争後には「大東郷」と呼ばれるほどの名声を得ています。
そのため、東郷平八郎を神として祀る動きは、日本海海戦以降に高まった尊敬が、死後の神社創建へつながっていきました。
1934年に死去し、国葬が行われた
東郷平八郎は1934年5月30日、86歳で亡くなりました。
死後には国葬が行われています。当時の東郷平八郎が、海軍内部だけで知られた軍人ではなく、国家的に顕彰される人物となっていたことが分かります。
そして死後、全国各地から海軍省へ「神社に祀ってほしい」という要望と献金が寄せられました。
国民からの要望と献金で東郷神社が建てられた
東郷平八郎を祀る神社の創建運動を受け、大角岑生海軍大臣が各界の識者に相談し、財団法人東郷元帥記念会が設立されました。
神社建設のため全国へ呼びかけが行われ、多くの浄財が集められます。その資金によって東京・原宿に建てられたのが現在の東郷神社です。
1940年に東郷神社が創建され、東郷平八郎は「東郷平八郎命」として祀られるようになりました。
東郷神社が創建された大きな目的は、日本海海戦の戦功だけを記念することではありませんでした。東郷神社では、東郷平八郎が生涯を通じて大切にしたとされる「至誠」、つまり偽りのないまごころや誠実さを後世へ伝えることも、創建の理由として掲げています。
現在は「至誠・勝利」の神として信仰されている
現在の東郷神社では、東郷平八郎命は「至誠」「勝利」「強運」「縁結び」の神として崇敬されています。
なかでも勝利との結びつきは、日本海海戦を指揮した東郷平八郎の生涯に由来します。現代では軍事的な勝利だけではなく、受験、仕事、スポーツなどの勝負事に関する祈願にも信仰が広がっています。
東郷平八郎の呼ばれ方・祭神名
東郷平八郎は神話の神ではなく近代の実在人物なので、古代の神々のように多くの異名や異表記を持つわけではありません。
一方、元帥となってからは「東郷元帥」、日露戦争後には「大東郷」などの呼び方が広まりました。神社で祀られる際の祭神名は「東郷平八郎命」です。
| 区分 | 名称 |
|---|---|
| 本名 | 東郷平八郎 |
| 主な呼称 | 東郷元帥、大東郷 |
| 祭神名 | 東郷平八郎命 |
東郷平八郎の御神格・ご利益・ご神徳
東郷平八郎命は、日本海海戦での勝利から勝利の神として信仰されています。また、東郷神社では東郷平八郎の生涯を表す徳として「至誠」も重視されています。
現在は勝負事だけでなく、合格祈願、仕事、人との縁など、幅広い願いを持つ人が参拝しています。
東郷平八郎の御神格
| 御神格 | 至誠の神、勝利の神 |
|---|
勝利の神とされる背景には、日本海海戦で連合艦隊を指揮した経歴があります。
一方の「至誠」は、戦争での勝敗とは別に、東郷平八郎の生涯を通じた徳をたたえるものです。東郷神社でも、東郷平八郎の「至誠」を後世へ伝えることが創建の大きな目的として掲げられています。
東郷平八郎のご利益
| ご利益 | 勝運、必勝、合格祈願、心願成就、社運隆昌、縁結びなど |
|---|
勝運や必勝の信仰は、日本海海戦での勝利と結びついています。
現在の東郷神社では、必勝祈願や合格祈願、心願成就、社運隆昌などの祈祷が行われています。受験や仕事、スポーツなど、現代のさまざまな勝負に向き合う人から信仰されています。
また、東郷神社では良縁祈願も行われており、縁結びも東郷平八郎命のご神徳として案内されています。
東郷平八郎のご神徳
| ご神徳 | 至誠、勝利、強運、縁結び |
|---|
東郷平八郎命の信仰で特徴的なのが「至誠」です。
東郷平八郎は戦争に勝利した軍人としてだけでなく、誠を尽くして務めを果たした人物として顕彰されました。死後に神社創建を求める声が全国から集まった背景にも、戦功とともにその人物を後世へ伝えようとする動きがありました。
東郷平八郎の家族・子孫
東郷平八郎は薩摩藩士の家に生まれ、テツと結婚しました。子どもには長男の東郷彪、次男の東郷実などがおり、その後も子孫が続いています。
特に次男の東郷実は父と同じ海軍の道へ進み、海軍少将となりました。
| 関係 | 人物・説明 |
|---|---|
| 父 | 薩摩藩士・東郷実友 |
| 妻 | テツ |
| 長男 | 東郷彪 |
| 次男 | 東郷実 |
| 孫 | 東郷一雄など |
長男の東郷彪は東郷家を継ぎ、父の死後に侯爵を襲爵しました。次男の東郷実は海軍軍人となり、東郷家では次の世代にも海軍と関わる人物が出ています。
孫の東郷一雄は、後に祖父東郷平八郎についての思い出を文章に残しています。
東郷平八郎の名言・有名な言葉
東郷平八郎には、日本海海戦や日露戦争後の「聯合艦隊解散之辞」と結びついた有名な言葉があります。
ただし、「東郷平八郎の名言」として広まっているものの中には、東郷平八郎自身が作った言葉ではないものもあります。
「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」
日本海海戦を象徴する言葉です。
1905年5月27日、戦闘開始を前に旗艦「三笠」にZ旗が掲げられました。この旗によって示されたのが、「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」という意味の信号です。
日本の行く末がこの戦いにかかっているため、全員が一層努力せよという内容でした。
東郷平八郎個人がその場で口にした台詞というより、東郷平八郎が指揮する連合艦隊から全艦へ示された戦闘信号として知られています。
「勝って兜の緒を締めよ」
「勝って兜の緒を締めよ」も、東郷平八郎と強く結びついている言葉です。
日露戦争後の「聯合艦隊解散之辞」で使われましたが、東郷平八郎自身の造語ではありません。「古人曰く」としたうえで、この言葉を引用しています。
大きな勝利を収めた後だからこそ慢心せず、平時にも訓練と備えを怠らないことを説くために使われました。
「百発百中の一砲」
「聯合艦隊解散之辞」には、日頃の訓練の大切さを説いた有名な一節もあります。
東郷平八郎は、兵器をそろえるだけでは十分ではなく、それを使う人間の力を高めることが必要だと説いています。
日本海海戦で大きな勝利を収めた後にも、勝利そのものより日頃の訓練や備えを重視する姿勢を示していました。
東郷平八郎はどんな性格だった?
東郷平八郎は、後世の人物評では「寡黙」「沈着」な人物として語られることがあります。
また、東郷平八郎について残されている文章や行動を見ると、勝利した後にも油断を強く戒めていた人物だったことが分かります。
日露戦争後の「聯合艦隊解散之辞」でも、戦争が終わったからといって備えを怠ってはならないことを説いています。
現在の東郷神社では、東郷平八郎の生涯を表す徳として「至誠」が特に重視されています。後世には、戦場での功績だけでなく、誠実に務めを果たした人物としても顕彰されてきました。
東郷平八郎の死因と最期
東郷平八郎の死因は、晩年に患っていた喉頭がんの悪化です。
1934年5月30日に86歳で亡くなりました。死後には国葬が行われ、多くの人々がその死を悼みました。
また、全国から東郷平八郎を神社に祀ってほしいという要望と献金が集まり、東郷元帥記念会の設立と東郷神社の創建へつながっています。
東郷平八郎が亡くなってから東郷神社が創建されるまでには約6年あります。現在の東郷平八郎信仰は、生前の功績と、死後に行われた顕彰によって形づくられていきました。
東郷平八郎の生涯と日本海海戦
東郷平八郎の名を歴史に残した最大の出来事が、1905年5月27日から28日に行われた日本海海戦です。
ロシアのバルチック艦隊を迎え撃った東郷平八郎率いる連合艦隊は、この戦いで大きな勝利を収めました。この戦勝が、後に東郷平八郎が勝利の神として祀られる大きな背景となります。
バルチック艦隊を迎え撃った日本海海戦
以下は、当時の戦闘記録で確認できる出来事をもとに、現代の読み物として意訳・再構成しています。原文の逐語訳ではありません。
1905年5月27日未明。長い航海を続けて日本近海へやってきたロシアのバルチック艦隊を、仮装巡洋艦「信濃丸」が発見した。午前4時45分、その知らせが連合艦隊へ送られる。
東郷平八郎が指揮する連合艦隊も動き出した。旗艦は戦艦「三笠」。ロシア艦隊との決戦が始まろうとしていた。
午後1時55分、三笠のマストにZ旗が掲げられた。「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」。この意味を持つ信号が、連合艦隊の各艦へ示された。
午後2時5分。東郷平八郎は、敵艦隊を前にして連合艦隊へ左回頭を命じた。巨大な艦隊が次々に進路を変えていく。
午後2時10分、連合艦隊が砲撃を開始した。日本とロシア、二つの艦隊による戦闘が始まり、ロシア側の艦艇は次々と損害を受ける。午後3時頃にはロジェストヴェンスキー司令長官も負傷した。
戦闘は夕方まで続いた。日が暮れた後も戦いは終わらず、日本側は夜間にも攻撃を続けた。
翌28日、連合艦隊は敗走するロシア艦隊の残存艦艇を再び発見する。戦闘の末、ロシア艦隊は降伏した。
日本海海戦は、日本側の大きな勝利で終わった。東郷平八郎の名前も、この戦いとともに日本国内外へ広く知られることになる。
しかし東郷平八郎の人生は、日本海海戦の勝利で終わったわけではない。戦争が終わった後には「聯合艦隊解散之辞」で、勝利したからこそ慢心してはならないと説いた。日本海海戦で得た名声はその後も大きくなり、1934年の死後には、東郷平八郎を神社に祀ろうとする動きへつながっていった。
⇒【アジア歴史資料センター】「日本海海戦電報報告1(1)」はこちら
東郷平八郎を祀る東郷神社
東郷平八郎を祀る神社として最もよく知られているのが、東京都渋谷区にある東郷神社です。
この神社は東郷平八郎の生前に建てられたものではありません。1934年の死後に全国から寄せられた要望と献金を受けて創建されました。
東郷神社(東京都渋谷区)
東郷神社は東京都渋谷区神宮前に鎮座し、東郷平八郎命を御祭神として祀っています。
東郷平八郎が亡くなった後、その「至誠」の徳を後世へ伝えたいとして、全国から神社創建を求める声と献金が海軍省へ寄せられました。これを受けて東郷元帥記念会が設立され、国民から集めた浄財によって神社が建てられます。
1940年に鎮座祭が行われ、東郷平八郎命を祀る神社として現在まで続いています。
現在は「至誠」「勝利」「強運」「縁結び」の神として崇敬され、合格や仕事、勝負事などを願う人々も参拝しています。
参考・原典
東郷平八郎の生涯、海軍での経歴、日本海海戦、元帥就任、東宮御学問所総裁などは、国立国会図書館「近代日本人の肖像」で確認できます。
⇒【国立国会図書館】「東郷平八郎|近代日本人の肖像」はこちら
東郷平八郎の死去と国葬については、国立公文書館に当時の公文書が残されています。
⇒【国立公文書館】「特ニ国葬ヲ賜フ 故元帥海軍大将 侯爵東郷平八郎」はこちら
日本海海戦の経過や、Z旗の掲揚、左回頭、砲撃開始などは、アジア歴史資料センターが公開する日露戦争関係資料で確認できます。
⇒【アジア歴史資料センター】日露戦争特別展2「日本海海戦(2)」はこちら
東郷神社の創建経緯、御祭神名、「至誠」「勝利」「強運」「縁結び」の信仰については、東郷神社の公式情報で確認できます。
