織田信長は、尾張から勢力を広げ、天下統一を進めた戦国武将です。1582年の本能寺の変で亡くなった後、約290年を経た明治時代に神として祀られるようになりました。
現在は京都の建勲神社などで祭神として祀られ、国家安泰・万民安堵の神とされています。この記事では、織田信長がなぜ神様になったのか、生前から神格化されていたという説、天皇との関係や「天皇を廃止しようとした」という説について紹介します。
織田信長は何の神様?
織田信長は、戦国時代に生きた実在の武将で、死後にその功績をたたえて神として祀られるようになった人物です。京都の建勲神社では主祭神として祀られ、国家安泰・万民安堵の神とされています。
織田信長は尾張を統一した後、1560年の桶狭間の戦いで今川義元を破り、美濃へ進出しました。1568年には足利義昭を奉じて京都へ入り、その後も勢力を拡大します。
1582年に本能寺の変で亡くなったため、織田信長自身が天下統一を完成させることはありませんでした。それでも、戦国時代の統一を大きく進めた人物として後世に評価されます。
ただし、織田信長が亡くなった直後から現在のような神社の祭神だったわけではありません。死後は安土の摠見寺などで菩提を弔われ、明治時代になってから正式に神として祀られることになります。
織田信長はなぜ神様になった?神格化された理由
織田信長が神として祀られた直接のきっかけは、明治時代にあります。
明治政府が成立すると、歴史上で国家に功績を残した人物を神として祀る神社が整備されました。織田信長もその中で、天下統一を進め、朝廷の儀式の復興などに関わった人物として評価されました。
子孫の織田信敏が織田信長を祀ることを願い出た
1869年、織田信長の子孫にあたる天童藩知事・織田信敏が、祖先である織田信長を神として祀るため、神号の下賜や神社創建を願い出ました。
同じ1869年には、明治天皇から織田信長を祀る神社を創立する宣下があり、当初は「健織田社」という社号が与えられました。翌1870年には「建勲」の神号が宣下され、現在の建勲神社につながっていきます。
そのため、織田信長の神格化は「有名な武将だったから自然に神になった」というものではありません。子孫による請願と、明治時代に織田信長の功績をたたえる動きが重なり、正式な神社祭祀へ進みました。
天下統一と朝儀復興の功績が評価された
京都の建勲神社では、神社が創建された理由として、織田信長が戦国乱世の中で天下統一を進めたことと、「朝儀復興」に取り組んだことを挙げています。
朝儀とは、朝廷で行われる儀式のことです。戦乱が続いた京都では朝廷も財政的に苦しい状況にあり、織田信長は上洛後、京都の政治に関わるとともに朝廷とも関係を築いていきました。
明治時代には、こうした織田信長の活動が、戦乱から統一へ向かわせた功績や朝廷を支えた功績として評価されました。
建勲神社は別格官幣社になった
1875年、建勲神社は「別格官幣社」に列せられました。
別格官幣社は、明治時代の神社制度で設けられた社格の一つです。歴史上の功臣などを祀る神社が含まれ、楠木正成を祀る湊川神社、豊臣秀吉を祀る豊国神社、徳川家康を祀る東照宮などもこの系統に位置づけられました。
織田信長を祀る建勲神社が別格官幣社となったことからも、明治時代に織田信長が国家に功績を残した人物として顕彰されたことが分かります。
織田信長は生前から神格化されていた?
織田信長については、明治時代よりはるか前、生前から宗教的な権威を強め、自らを特別な存在として見せようとしていたのではないかという研究があります。
特に研究されているのが、織田信長が安土城内に建立した摠見寺です。摠見寺と織田信長をめぐる祭祀や参拝のあり方などから、織田信長の「自己神格化」を論じる研究があります。
また、織田信長の晩年には、その威光を神仏に並ぶほど大きなものとして表現する記録もあり、単なる武将を超えた権威を持つ存在として扱われていたことを指摘する研究もあります。
生前の織田信長がどこまで自分自身の神格化を意図していたのかについては研究によって議論されているようです。
織田信長の別名・神号
織田信長は、神社では「織田信長公」「織田信長命」などの表記でも祀られています。
| 区分 | 名称 |
|---|---|
| 一般的な名前 | 織田信長 |
| 神社での祭神表記 | 織田信長公、織田信長命 |
| 神号 | 建勲 |
「建勲」は「たけいさお」と読みます。京都の建勲神社も正式には「たけいさおじんじゃ」と読みますが、「けんくんじんじゃ」「けんくんさん」という呼び方も広く使われています。
織田信長の御神格・ご利益・ご神徳
織田信長は、自然や農耕を司る古代の神ではなく、実在した人物を死後に神として祀った存在です。
建勲神社では国家安泰・万民安堵の神とされ、大願成就、開運、難局突破などでも信仰されています。
織田信長の御神格
| 御神格 | 国家安泰・万民安堵の神、歴史上の人物を祀る祭神 |
|---|
織田信長の場合、神としての性格は戦国武将として残した功績と深く関係しています。
建勲神社の創建理由にも、天下統一や朝儀復興を進めた功績が挙げられています。古代神話に登場する神とは成立の仕方が異なり、歴史上の人物への顕彰が神社祭祀につながった例です。
織田信長のご利益
| ご利益 | 大願成就、開運、難局突破、産業指導、災難除け |
|---|
建勲神社では、大願成就、開運、難局突破、産業指導、災難除けの神として信仰されています。
これらは現在の建勲神社が掲げている信仰であり、織田信長の生涯にあった特定の一つの出来事を、それぞれのご利益の由来として説明しているわけではありません。
そのため、「楽市・楽座を行ったから産業指導の神になった」といった形で、歴史上の政策と現在のご利益を直接結びつけることは避けた方が正確です。
織田信長のご神徳
| ご神徳 | 国家安泰、万民安堵 |
|---|
建勲神社で掲げられている中心的なご神徳が、国家安泰と万民安堵です。
これは同神社が、織田信長を戦国乱世の中で天下統一を進めた人物として祀っていることとともに示されています。
現在も織田信長の命日につながる例祭や、「建勲」の神号が宣下された日に行われる船岡大祭などを通して、織田信長を祭神とする信仰が続いています。
織田信長の家系図・関係する人物
織田信長は、尾張で勢力を広げた織田信秀の子として生まれました。
織田信長の神格化まで考える場合、戦国時代の家族だけでなく、約三百年後に神号を願い出た子孫・織田信敏も関係の深い人物です。
| 関係 | 人物 |
|---|---|
| 父 | 織田信秀 |
| 正室 | 濃姫(帰蝶) |
| 子 | 織田信忠、織田信雄、織田信孝など |
| 後世の子孫 | 織田信敏 |
父の織田信秀は尾張で勢力を伸ばした武将です。織田信長は織田信秀の死後、織田家内部の争いを経て尾張をほぼ統一し、そこから美濃、近江、京都方面へ勢力を広げました。
正室として知られる濃姫は、美濃の斎藤道三の娘です。織田信長との結婚後については確かな記録が少なく、その後の生涯には分からない部分が残っています。
嫡男の織田信忠は織田信長の後継者となりました。1582年の本能寺の変では京都に滞在しており、織田信長が襲撃されたことを知ると二条御所へ入り、明智軍と戦って亡くなりました。現在の建勲神社では、織田信長とともに織田信忠も祀られています。
そして明治時代には、後世の子孫である織田信敏が織田信長への神号下賜を願い出ました。戦国時代から長く続いた織田家の系譜が、織田信長を神として祀る動きにもつながっています。
織田信長と天皇の関係
織田信長については、「天皇と対立していた」「天皇を廃止しようとした」という話が語られることがあります。
しかし、織田信長が天皇そのものを廃止しようとしていたと確認できる史料はありません。
織田信長と正親町天皇との関係では、特に「譲位」をめぐって研究が続いており、以前と現在では見方も変わってきています。
織田信長は天皇を廃止しようとした?
「織田信長は天皇を廃止しようとしていた」と確定した史実として説明することはできません。
このイメージと関係が深いのが、正親町天皇の譲位問題です。以前の研究では、織田信長が正親町天皇に譲位を迫り、朝廷を強く支配しようとしていたと見る「対立説」が有力でした。
そのため、織田信長の権力がさらに強くなれば朝廷そのものを排除したのではないか、という見方へ結びつけられることがあります。
しかし、天皇に譲位を求めることと、天皇や皇室そのものを廃止することは別です。織田信長が天皇制の廃止を計画していたと確認できる史料はありません。
正親町天皇の譲位と織田信長
正親町天皇の譲位については、研究が進んだことで見方が変わってきました。
かつては、正親町天皇が望んでいないにもかかわらず織田信長が退位を迫ったという説明が有力でした。
一方、現在は正親町天皇自身が以前から譲位を望んでおり、その実現に必要な財力や政治力を持つ織田信長に協力を求めていたとする「協調説」が有力視されています。
1573年には、実際に織田信長と朝廷との間で正親町天皇の譲位について話し合われていました。
つまり、譲位をめぐる交渉が存在したこと自体は確認されていますが、それをそのまま「織田信長が天皇を追い出そうとした証拠」とすることはできません。
織田信長は朝廷とどのような関係だった?
織田信長は1568年に上洛した後、京都の政治に深く関わるようになり、朝廷との関係も強まりました。
両者の間に政治上の交渉や意見の違いがなかったわけではありません。一方で、織田信長側は朝廷に関係する事業にも携わっています。
後の明治時代に建勲神社が創建された際には、織田信長の功績として天下統一とともに「朝儀復興」が挙げられました。
そのため、織田信長と天皇との関係を「敵対していた」「天皇をなくそうとしていた」という一言だけで説明することはできません。特に「天皇廃止」は、史料で確認された織田信長の政策ではなく、織田信長と朝廷の関係をめぐる議論から広がったイメージと分けて考える必要があります。
織田信長の伝承・死後に神として祀られるまで
織田信長は1582年の本能寺の変で亡くなりました。しかし、現在の建勲神社で神として祀られるようになるのは、それから約三百年後です。
死後に仏教による供養が続き、明治時代になって神号を受けるまで、織田信長に対する扱いは大きく変化していきました。
本能寺で倒れた織田信長が「神」になるまで
以下は、史料で確認できる出来事をもとに、現代の読み物として意訳・再構成しています。史料の逐語訳ではありません。
1582年6月2日。まだ空が明るくなる前の京都で、大勢の兵が静かに動いていた。向かう先は本能寺。その寺には、天下統一を目前にした織田信長がいた。
明智光秀の軍勢が寺を取り囲む。周囲にいた織田信長の兵は少ない。戦うには、あまりにも数が違った。
騒ぎは一気に広がった。叫び声が飛び、武器がぶつかる音が響き、兵が境内へなだれ込む。織田信長も武器を手にして応戦した。
尾張から戦い続けてきた男だった。桶狭間で今川義元を破り、美濃を奪い、京都へ入り、浅井・朝倉氏を滅ぼし、武田氏も滅亡させた。多くの敵を倒しながら広げてきた勢力が、この本能寺にはない。
明智軍は押し寄せ続けた。やがて火が上がり、炎は建物へ回り、煙が寺を覆っていく。織田信長は本能寺で死んだ。
天下統一を完成させることはなかった。だが、織田信長の死後、その名まで消えたわけではない。
翌1583年、豊臣秀吉は安土城二の丸跡に織田信長の遺愛品を納め、廟を設けた。6月2日の一周忌には法要が行われ、安土に残った摠見寺では、その後も織田信長の菩提が弔われていく。
京都の船岡山も、本能寺の変の後に豊臣秀吉が正親町天皇の勅許を受け、織田信長の廟所とした場所だった。戦場を駆け続けた武将は、死後まず死者として供養された。
それから約三百年。豊臣の世が終わり、徳川の世が始まり、その江戸幕府も倒れた。
1869年。時代は明治へ変わっていた。織田信長の子孫・織田信敏は、祖先である織田信長を神として祀ることを願い出た。
同じ年、明治天皇から織田信長を祀る神社を創立する宣下が出された。本能寺で死んだ一人の戦国武将が、今度は神として祀られようとしていた。
1870年には「建勲」の神号が宣下される。さらに1875年、建勲神社は別格官幣社に列せられた。
かつて織田信長の廟所となった京都・船岡山には、やがて織田信長を祀る社殿が建てられた。戦場を駆け、本能寺の炎の中で生涯を終えた織田信長は、その死から約三百年後、同じ京都で祭神として祀られることになった。
⇒【国立国会図書館デジタルコレクション】『信長公記』はこちら
織田信長ゆかりの神社・祀られている神社
織田信長を祭神として祀る中心的な神社が、京都の船岡山にある建勲神社です。
船岡山は明治時代に突然選ばれた場所ではなく、本能寺の変の後、豊臣秀吉が正親町天皇の勅許を受けて織田信長の廟所とした場所でもあります。
建勲神社
建勲神社は京都府京都市北区の船岡山に鎮座しています。
主祭神は織田信長公で、嫡男の織田信忠も配祀されています。
1869年に明治天皇から織田信長を祀る神社を創立する宣下があり、1870年には「建勲」の神号が宣下されました。1875年には別格官幣社に列せられ、1880年に船岡山の麓へ社殿が造営されています。その後、1910年に現在の山上へ社殿が移されました。
現在も織田信長の生涯と神号に関係する祭りが続いています。7月1日の例祭は、本能寺の変が起きた天正10年(1582)6月2日を新暦に換算した日に行われます。
10月19日の船岡大祭は、「建勲」の神号宣下を記念して行われる祭りです。仕舞『敦盛』や舞楽などが奉納されています。
