藤原鎌足は、飛鳥時代に中大兄皇子と手を組み、645年の乙巳の変を進めた政治家です。もとは中臣鎌子・中臣鎌足と呼ばれ、亡くなる直前に天智天皇から「藤原」の氏を授けられました。
藤原鎌足の子孫からは後世の藤原氏が広がり、藤原鎌足自身も藤原氏の祖として崇敬されました。現在は奈良県桜井市の談山神社で御祭神として祀られています。
藤原鎌足は何の神様?何をした人?
藤原鎌足は、藤原氏の祖として神に祀られた歴史上の人物です。614年に生まれ、中大兄皇子とともに蘇我入鹿を倒す計画を進め、その後も中大兄皇子の側近として政治を支えました。
藤原鎌足が生まれた中臣氏は、朝廷の祭祀に関わってきた有力氏族です。藤原鎌足は中臣氏が担ってきた祭祀の職よりも政治の道へ進み、蘇我氏が大きな権力を握っていた朝廷で中大兄皇子と結びつきました。
645年の乙巳の変では、蘇我入鹿を宮中で討つ計画に参加します。蘇我入鹿の死後には父の蘇我蝦夷も自害し、蘇我氏本宗家が崩れました。その後、藤原鎌足は内臣として中大兄皇子を補佐し、孝徳・斉明・天智天皇の時代まで政治の中枢にいました。
669年に重い病に伏すと、大織冠・内大臣と「藤原」の氏を授けられ、翌日に亡くなりました。次男の藤原不比等とその子孫が藤原氏を大きく発展させ、藤原鎌足は一族の祖として長く崇敬されることになります。
藤原鎌足が神様として祀られたのはなぜ?
藤原鎌足が神として祀られた大きな理由は、藤原氏の祖として子孫から崇敬されたことと、多武峰で藤原鎌足を祀る祭祀が長く続いたことです。
現在の談山神社には、長男の定慧が藤原鎌足の遺骨の一部を多武峰へ移し、父を弔うために十三重塔などを建てたという由緒が伝わっています。談山神社は現在も藤原鎌足公を御祭神としています。
この改葬については、多武峰に伝わる由緒として受け継がれてきました。定慧は665年に唐から帰国した後まもなく亡くなったとする伝記もあり、678年の改葬は多武峰に伝わる伝承として知られています。
藤原鎌足への信仰が広がっていたことは、「多武峰曼荼羅(とうのみねまんだら)」と呼ばれる鎌足像からも分かります。藤原鎌足が中央に大きく描かれ、その左右には息子の定慧と藤原不比等が配されました。こうした像は藤原氏の子孫から礼拝され、神格化された藤原氏の祖としての姿を伝えています。
中世には、多武峰聖霊院の鎌足像が「御破裂」を起こす霊像として畏れられました。国家や藤原氏に大きな異変が起こる前に神像へ異変が現れると信じられ、藤原鎌足は一族の祖に加えて、霊威を持つ神として信仰されるようになります。
多武峰は仏教と神への祭祀が重なった神仏習合の場でもありました。藤原鎌足は維摩居士の化身とも信じられ、鎌足像は神像として礼拝されました。こうした祖先信仰、多武峰での祭祀、霊像への信仰が重なり、藤原鎌足は神として祀られる存在になりました。
藤原鎌足と中臣鎌足は同じ人?別名・名前の変化
藤原鎌足と中臣鎌足は同じ人物です。藤原鎌足は中臣氏に生まれ、人生の最後に「藤原」の氏を授けられました。
| 区分 | 名前・呼び方 |
|---|---|
| 中臣氏の人物としての名 | 中臣鎌子、中臣鎌足 |
| 藤原の氏を授けられた後 | 藤原鎌足 |
| 官位などに由来する呼称 | 大織冠、内大臣 |
| 信仰上の呼称 | 藤原鎌足公、談山大明神 |
『日本書紀』などでは中臣鎌子の名も見え、後世には中臣鎌足とも呼ばれています。「鎌子」と「鎌足」は同じ人物を指す名前です。
669年10月、病が重くなると、天智天皇から大織冠・内大臣と藤原の氏を授けられました。翌日に亡くなったため、一般に「藤原鎌足」と呼ばれる人物が実際に藤原の名を得たのは生涯の最晩年です。
「大織冠」は名前ではなく、藤原鎌足に授けられた最高位の冠位に由来する呼び方です。後世には藤原鎌足その人を指す呼称としても使われました。
藤原鎌足の生涯
藤原鎌足は614年に生まれ、669年に56歳で亡くなりました。蘇我氏が大きな力を持っていた時代から、乙巳の変を経て天智天皇の時代へ移るまで、朝廷政治の中心にいた人物です。
藤原鎌足の出身地はどこ?
藤原鎌足は、大和国高市郡の出身とする古い伝承があります。現在の奈良県では、明日香村小原の大原神社周辺が誕生地候補の一つとされ、「大織冠誕生之旧跡」の碑や産湯の井戸が伝わっています。
一方、平安時代後期の『大鏡』などには、常陸国鹿島で生まれたとする話があります。現在の茨城県鹿嶋市下生には鎌足神社があり、この地を藤原鎌足の出生地とする伝承が残っています。
そのため、藤原鎌足の出生地には大和と鹿島の二つの伝承があります。古い人物伝では大和国高市郡の人物として知られ、鹿島にも誕生地伝承が伝わっています。
中大兄皇子と手を結ぶ
藤原鎌足の人生で最も深く結びついた人物が、中大兄皇子です。後の天智天皇にあたります。
談山神社には、飛鳥で開かれた蹴鞠の席で二人が出会ったという伝承があります。中大兄皇子の沓が脱げ、藤原鎌足が拾って差し出したことから親交が始まったという話で、現在も春と秋に「けまり祭」が行われています。
多武峰には、中大兄皇子と藤原鎌足が蘇我入鹿を倒すための相談をしたという伝承もあります。二人が山中で密談したことから「談山」の名が生まれたと伝えられています。
乙巳の変と大化改新
645年6月、中大兄皇子と藤原鎌足らは宮中で蘇我入鹿を襲撃しました。この政変が乙巳の変です。
藤原鎌足は、蘇我入鹿が常に剣を身につけていることを警戒し、事前に剣を外させる策に関わりました。中大兄皇子は長槍を持って隠れ、藤原鎌足らも弓矢を手にして襲撃に備えます。
蘇我入鹿を討つ実行役が恐怖で動けなくなると、藤原鎌足は彼らを叱咤しました。やがて中大兄皇子が飛び出し、蘇我入鹿への攻撃が始まります。
蘇我入鹿の死後、父の蘇我蝦夷も自害し、蘇我氏本宗家は崩れました。その後に孝徳天皇が即位し、新しい政治制度づくりが進められていきます。
「乙巳の変」は645年に起きた政変を指し、その後に進められた一連の政治改革が「大化改新」と呼ばれています。
内臣として中大兄皇子を支える
乙巳の変が終わった後も、藤原鎌足の政治人生は続きます。内臣として中大兄皇子の側近となり、孝徳天皇・斉明天皇・天智天皇の時代まで政権を支えました。
藤原鎌足には高い冠位や多数の封戸・功田も与えられています。これらは後に藤原氏へ受け継がれる財産の基盤になりました。
669年に藤原鎌足が重病になると、天智天皇との長い関係も最期を迎えます。藤原鎌足は死の直前に藤原の氏と大織冠を授けられ、その名と家系は次の世代へ引き継がれました。
藤原鎌足の死因は?
藤原鎌足は669年10月に重い病に伏し、10月16日に亡くなりました。伝わっている史料から具体的な病名までは分かっていません。
藤原鎌足の墓の有力候補として知られるのが、大阪府高槻市の阿武山古墳です。墓室には約60歳の男性が葬られており、残されたX線写真の分析から、亡くなる数か月前に肋骨などを折る大きな事故に遭っていたことが分かっています。
『多武峰略記』が藤原鎌足を安威山に葬ったと伝えることなどから、阿武山古墳の被葬者を藤原鎌足とする説があります。被葬者の身元は確定しておらず、鎌足の死について史料から確認できるのは、重い病に伏して亡くなったことです。
藤原鎌足が病に伏した際には、夫人の鏡女王が回復を願って山階寺を造営したと伝えられています。この山階寺は後に移転し、藤原氏の氏寺として栄えた興福寺へつながりました。
藤原鎌足の御神格・ご利益・ご神徳
藤原鎌足は、藤原氏の祖として崇敬される人物神です。現在の談山神社では、藤原鎌足が大きな政治の変化に関わった人物であることや、中大兄皇子との縁にちなみ、新しい挑戦の成功、厄除け、勝運、良縁などの祈願につながっています。
藤原鎌足の御神格
| 御神格 | 藤原氏の祖として崇敬される人物神、談山神社の御祭神 |
|---|
藤原鎌足への信仰では、藤原氏の祖であることが大きな柱になっています。多武峰曼荼羅では藤原鎌足が神像として大きく描かれ、藤原氏の子孫から礼拝されました。
中世には御破裂を起こす霊像としても畏れられ、祖先を祀る信仰からさらに広がった霊威ある神として崇敬されました。
藤原鎌足のご利益
| ご利益 | 厄難解除、開運招福、心願成就、成功祈願、事業繁栄、変革・心機一転、勝運向上、良縁 |
|---|
談山神社には、大化改新にあやかり、新しいことを始める際の成功を願う「改新守」があります。心願成就・成功祈願・事業繁栄・変革・心機一転などの願いと結びついています。
藤原鎌足の鋭い眼光を表した「三方にらみ守」は厄難解除・開運招福、「勝守」は勝運向上を願うお守りです。中大兄皇子と藤原鎌足を結んだ蹴鞠の縁から作られた「吉縁守」もあり、人との縁を願う信仰にもつながっています。
藤原鎌足のご神徳
| ご神徳 | 厄を祓う守護、新しい挑戦への加護、成功・勝運、良縁 |
|---|
談山神社では、各種のお守りで藤原鎌足公の加護が案内されています。現在の信仰では、大きな政治の変化に関わった藤原鎌足の生涯が、新しい一歩や成功を願う祈りへ結びついています。
藤原鎌足の家系図・家族・子孫
藤原鎌足は中臣御食子の子として生まれました。子には僧となった定慧、後に藤原氏を大きく発展させる藤原不比等、天武天皇の夫人となった氷上娘と五百重娘などがいます。
| 関係 | 人物 |
|---|---|
| 父 | 中臣御食子 |
| 母 | 大伴氏の女性。『藤氏家伝』では智仙媛と伝わる |
| 夫人 | 鏡女王 |
| 子 | 定慧、藤原不比等、氷上娘、五百重娘など |
鏡女王は、藤原鎌足が重い病に伏した際に夫の回復を願って山階寺を造営したと伝えられています。藤原氏の氏寺となる興福寺の歴史は、ここから始まりました。
定慧は僧となって唐へ渡り、665年に帰国しました。藤原不比等は父の死後に朝廷で力を伸ばし、その四人の息子から南家・北家・式家・京家の藤原四家が分かれていきます。
氷上娘と五百重娘は天武天皇の夫人となりました。氷上娘は但馬皇女、五百重娘は新田部皇子を産み、藤原鎌足の家は皇室とも結びついていきます。
藤原鎌足の子孫は現在もいる?
藤原鎌足を祖とする藤原氏の家系は、その後も長く受け継がれました。
次男の藤原不比等の四人の息子から藤原四家が生まれ、その中でも北家が大きく発展します。平安時代には摂政・関白を多く出し、鎌倉時代以降は近衞家・九条家・二条家・一条家・鷹司家の五摂家へつながりました。
五摂家の家は近代以降にも受け継がれ、現在も近衞家など藤原氏の流れを伝える家があります。長い家系の中では養子による継承も行われているため、藤原氏は鎌足を祖とする家系が枝分かれしながら現代まで受け継がれている形です。
藤原鎌足の伝承・史話
藤原鎌足の人生を大きく変えた事件が、645年の乙巳の変です。『日本書紀』には、蘇我入鹿を宮中で襲撃するために武器を用意し、実行役が恐怖で動けなくなるほど張り詰めた現場の様子まで記されています。
大極殿に血が流れた日――乙巳の変
以下は、原典で確認できる出来事をもとに、現代の読み物として意訳・再構成しています。原文の逐語訳ではありません。
皇極天皇四年六月十二日。
大極殿には皇極天皇が座り、蘇我入鹿も姿を現していた。朝廷で絶大な権勢を握る入鹿は、昼も夜も剣を身につけているほど警戒心が強い。その男を、今日この宮中で斬る。
蘇我入鹿が剣を持ったままでは襲撃は難しい。藤原鎌足たちは事前に策をめぐらせ、入鹿が剣を外すように仕向けていた。何も知らない入鹿は武器を手放し、大極殿へ入ってくる。
中大兄皇子は長槍を握り、殿の側に身を潜めた。藤原鎌足たちは弓矢を手にして控え、佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田には入鹿を斬るための剣が渡される。ここで失敗すれば、自分たちが殺される側に回る。
だが、実行の時が近づくほど佐伯子麻呂たちの身体は動かなくなった。水で飯を流し込もうとしても吐き出してしまう。目の前にいるのは、長く朝廷で人々を恐れさせてきた蘇我入鹿だった。
藤原鎌足は怯える二人を厳しく叱り、奮い立たせた。
大極殿では倉山田石川麻呂が上表文を読み上げていた。入鹿をその場へ引き留めておくための役目だ。だが文章は終わりへ近づき、それでも実行役は姿を見せない。
倉山田石川麻呂の身体から汗が噴き出した。衣まで濡れ、上表文を持つ手も震えている。その様子を見た蘇我入鹿が、不審そうに理由を尋ねた。
倉山田石川麻呂は、天皇のおそばにいる緊張で汗が出たのだと答える。
もう時間がない。
中大兄皇子は、蘇我入鹿の威勢に押されて動けない実行役を見た。そして自ら飛び出した。
佐伯子麻呂たちも続く。振り下ろされた刃が蘇我入鹿の頭から肩を裂き、さらに脚を斬る。入鹿の身体が血に濡れ、床へ崩れた。
それでも蘇我入鹿は皇極天皇の御座へ向かった。傷ついた身体を引きずり、天皇の前へ這い寄って、自分に何の罪があるのか調べてほしいと訴える。
目の前で臣下が斬られた皇極天皇は、中大兄皇子に理由を問いただした。中大兄皇子は地に伏し、入鹿が皇室を滅ぼして国を奪おうとしていると訴える。
皇極天皇はその場を離れ、殿内へ入った。
残された蘇我入鹿へ、再び刃が振り下ろされた。
蘇我入鹿は大極殿で命を落とした。
その日は雨が降った。庭には雨水があふれ、入鹿の遺体にはむしろが掛けられた。血の流れた宮中で、中大兄皇子と藤原鎌足が進めてきた計画はついに実行された。
翌日、入鹿の父・蘇我蝦夷も追い詰められ、自邸に火を放って自害した。長く朝廷で大きな力を持った蘇我氏本宗家は崩れ、新しい政権が動き始める。
そして中大兄皇子のそばには、その後も藤原鎌足がいた。
乙巳の変から二十四年後。中臣鎌足は死の床で「藤原」という新しい氏を授けられる。その名は、本人の死後に日本史を大きく動かす一族の名として残っていく。
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藤原鎌足ゆかりの神社・祀られている神社
藤原鎌足への信仰を現在まで伝える中心的な神社が、奈良県桜井市多武峰の談山神社です。多武峰では長く鎌足の神像が祀られ、藤原氏の祖、霊威を持つ神として信仰されてきました。
談山神社
談山神社は奈良県桜井市多武峰に鎮座し、藤原鎌足公を御祭神として祀っています。
神社には、中大兄皇子と藤原鎌足が多武峰の山中で蘇我入鹿を倒すための相談をしたという伝承があります。二人が山で「談じた」ことから「談山」の名が生まれ、現在の社名にもつながったと伝えられています。
藤原鎌足の死後には、長男の定慧が父の遺骨の一部を多武峰へ移し、十三重塔と講堂を建てたという由緒が残っています。現在も境内には十三重塔や旧講堂にあたる神廟拝所があり、鎌足を弔った多武峰の歴史を伝えています。
中世には鎌足の神像が御破裂を起こす霊像として畏れられ、藤原氏の祖を祀る場所から、国家の異変とも結びつく信仰の場へ広がりました。神仏習合の歴史も深く、現在も観音講祭などにその名残が見られます。
春と秋には、中大兄皇子と藤原鎌足の出会いの伝承にちなむ「けまり祭」が行われます。11月17日には鎌足の命日にあたる例大祭が行われ、藤原鎌足公を祀る信仰が現在も続いています。
