天智天皇は、時の祖神、開運や導きの神として敬われる天皇です。即位前の中大兄皇子として大化改新に関わり、近江に都を置いた人物でもあります。水時計や百人一首と結びついた信仰、飛鳥時代の国づくり、家族や祀られている神社を紹介します。
天智天皇は何の神様?
天智天皇は、近江神宮で「時の祖神」、開運・導きの神として祀られている天皇です。漏刻による時報や国の制度づくりの事績が、時間・学芸・産業を守る神として敬われる理由になっています。
天智天皇の死後、702年には忌日に政務を休み、寺院で法要を営む「国忌」が設けられました。後には山科陵へ供え物を捧げる奉幣も行われ、朝廷では長く敬われてきました。平安時代には、国の制度を立て直した「中興の主」として天智天皇をたたえる見方も広まります。
近江には、天智天皇やその家族を祀る神社が受け継がれてきました。明治時代になると、旧都の地に天皇を祀る神宮を建てようという運動が起こり、地元の働きかけと全国からの支援を経て、1940年に近江神宮が創建されました。
現在の近江神宮では、時・開運・学芸・産業の守護神として崇敬されています。また、百人一首の最初に天智天皇の歌が置かれていることから、歌かるたの祖神としても親しまれています。
天智天皇の別名・読み方と元の名前
天智天皇の読み方は「てんじてんのう」です。「てんちてんのう」と読む資料もあり、宮内庁では歴史的仮名遣いの「てんぢてんのう」と表記しています。
即位前の名として広く知られているのは中大兄皇子で、天智天皇と同じ人物です。中大兄皇子は「なかのおおえのおうじ」または「なかのおおえのみこ」と読みます。元の個人名に当たる諱は、葛城と伝わります。
| 区分 | 別名・呼称 |
|---|---|
| 即位前の名・呼び名 | 中大兄皇子、葛城皇子 |
| 古典に見える呼称 | 天命開別天皇、近江天皇 |
| 神社での祭神名 | 天命開別大神、天命開別尊 |
天命開別天皇は「あめみことひらかすわけのすめらみこと」と読む、『日本書紀』に記された呼称です。近江神宮では天命開別大神、石坐神社では天命開別尊という祭神名が使われています。近江神宮は「天命開別」を、新しい時代を開き、運命を導く働きをたたえた尊称として説明しています。
天智天皇の御神格・ご利益・ご神徳
天智天皇への祈りは、時を大切にして物事を進めることや、人生の道を開くことに結びついています。近江神宮では、学問・文化・産業の発展を支える神としても仰がれています。
天智天皇の御神格
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 御神格 | 時の祖神、開運・導きの神、文化・学芸・産業の守護神、歌かるたの祖神 |
時の祖神という信仰の背景にあるのは、水の流れを利用して時間を測る「漏刻」です。時刻を知らせる仕組みは、朝廷の仕事を同じ時間に進めるためにも役立ちました。時計に関わる人々が天智天皇を敬うのは、この時刻制度とのゆかりによります。
歌かるたとの関係は、百人一首の巻頭歌「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」に由来します。粗く編んだ屋根から露が入り、田を見守る仮小屋で袖が濡れる情景を詠んだ歌です。『後撰和歌集』以後、天智天皇の作として伝えられ、百人一首を通じて広まりました。
天智天皇のご利益・ご神徳
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ご利益 | 開運、学芸の上達、産業の発展などを願う信仰 |
| ご神徳 | 時をつかさどる働き、進む道を示す導き、文化・学芸・産業の守護 |
近江神宮では、困難な時代に政治を進めた天智天皇の姿を、運を開き、進む方向を導くご神徳と結びつけています。大事な機会を生かしたい、新しい仕事や学びに取り組みたいという願いにも通じる信仰です。
産業の守護には、古代の技術や資源に関する記録も重なります。『日本書紀』には、668年に越の国から「燃える土」と「燃える水」が献上されたとあり、現在の近江神宮でも、原油を供える燃水祭が行われています。学芸や産業を育てる祈りが、奉納や祭典として受け継がれています。
天智天皇は何をした天皇?飛鳥時代の政治と国づくり
天智天皇が活躍したのは7世紀の飛鳥時代です。皇太子として長く政治を担った後、668年に即位しました。大化改新への関与、白村江の敗戦後の防衛、近江への遷都、戸籍や時刻制度の整備が主な事績です。
乙巳の変から大化改新へ
645年、中大兄皇子は中臣鎌足らと協力し、宮中で蘇我入鹿を殺害しました。翌日には父の蘇我蝦夷も自ら命を絶ち、政治の実権を握っていた蘇我氏の本家が滅びました。この政変を乙巳の変と呼びます。
その後、孝徳天皇が即位し、中大兄皇子は皇太子、中臣鎌足は内臣として新しい政権に加わりました。都は難波へ移り、土地や人々の支配、地方の行政、税の仕組みを整える改革が進められます。乙巳の変を起点とする一連の政治改革が、一般に大化改新と呼ばれています。
地方行政や戸籍、法令の整備は、孝徳天皇の時代から天智天皇、その後の天武天皇・持統天皇の時代へと進みました。どの制度がいつ形を整えたかについては、現在も研究が続いています。
白村江の敗戦と近江大津宮への遷都
661年に母の斉明天皇が亡くなると、中大兄皇子は正式な即位をせずに政治を行う「称制」を始めました。朝鮮半島では百済が唐・新羅に滅ぼされ、日本は百済の復興を助けるために軍を送りましたが、663年の白村江の戦いで敗れます。
敗戦後は、唐・新羅の侵攻への備えが急務となりました。筑紫に水をたたえた大きな土塁「水城」を築き、大野城・基肄城などの山城や、防人・のろしによる防衛網を整えていきます。これらの築城には、百済から来た人々の知識や技術も用いられました。
667年、中大兄皇子は飛鳥から琵琶湖の西岸へ都を移し、翌年に近江大津宮で即位しました。近江への遷都は、海外からの脅威が続く時期に行われています。大津宮は、後の壬申の乱で近江朝廷が敗れるまで、約5年半にわたって国の中心となりました。
庚午年籍と時を告げる仕組み
670年には、広い地域の人々を把握する戸籍「庚午年籍」が作られました。氏や身分などを確かめる基礎となり、後の時代にも大切に保存される戸籍となります。天智天皇の時代には「近江令」という法令が定められたとも伝わりますが、法典としての実在や内容には議論があります。
水時計については、皇太子時代の660年に漏刻を作った記録と、671年に近江で新しい台に漏刻を置き、鐘や太鼓で時を知らせた記録があります。飛鳥の水落遺跡からは、漆塗りの水槽や水を通す管などが見つかり、初期の水時計の仕組みを知る手掛かりになっています。
6月10日の「時の記念日」は、671年の時報の記事にちなんで1920年に設けられました。『日本書紀』に記された旧暦4月25日を、現在使われているグレゴリオ暦に換算すると6月10日になります。
天智天皇は何代目?家系図・関係する神々
天智天皇は第38代の天皇です。父は第34代の舒明天皇、母は第35代の皇極天皇で、母は再び即位して第37代の斉明天皇となりました。『日本書紀』には、皇后のほかに4人の妃と子を産んだ4人の宮人、4人の息子と10人の娘が記されています。
| 関係 | 神名・人物名と説明 |
|---|---|
| 父 | 舒明天皇。天智天皇と天武天皇の父です。 |
| 母 | 皇極天皇(斉明天皇)。一度退位した後、再び皇位に就きました。 |
| 妻・皇后 | 倭姫王。古人大兄皇子の娘で、668年に皇后となりました。 |
| 妻・妃 | 遠智娘、姪娘、橘娘、常陸娘。『日本書紀』では4人を「嬪」と記しています。 |
| 子の母となった宮人 | 色夫古娘、黒媛娘、伊羅都売、宅子娘。宅子娘は伊賀の采女として記されています。 |
| 息子 | 建皇子(母は遠智娘)、川嶋皇子(母は色夫古娘)、施基皇子(母は伊羅都売)、大友皇子(弘文天皇。母は宅子娘)。 |
| 娘・遠智娘の子 | 大田皇女、鸕野皇女(持統天皇)。 |
| 娘・姪娘の子 | 御名部皇女、阿陪皇女(元明天皇)。 |
| その他の娘 | 飛鳥皇女・新田部皇女(母は橘娘)、山辺皇女(母は常陸娘)、大江皇女・泉皇女(母は色夫古娘)、水主皇女(母は黒媛娘)。 |
| 同母弟 | 大海人皇子(天武天皇)。ともに舒明天皇と皇極天皇の子です。 |
| 同母妹 | 間人皇女。孝徳天皇の皇后となりました。 |
大海人皇子は兄の政治を支えましたが、671年、病床の天智天皇から後のことを託されると辞退し、出家して吉野へ移りました。天智天皇の死後、672年の壬申の乱では、大海人皇子と天智天皇の子・大友皇子が争い、大海人皇子側が勝利します。673年に即位した天武天皇の皇后となったのは、天智天皇の娘で、後に持統天皇となる鸕野皇女でした。
また、天智天皇の息子・施基皇子から、その子の光仁天皇、さらに光仁天皇の子の桓武天皇へと血筋が続きます。奈良時代の末から平安時代にかけては、父方の系譜を天智天皇へたどる天皇が皇位に就きました。
天智天皇の死去と山科陵
天智天皇は、天智10年の旧暦12月3日、近江大津宮で亡くなりました。天智10年は一般に671年と表しますが、この没日を現在のグレゴリオ暦に換算すると672年1月10日になります。近江神宮で1月10日に天智天皇祭が行われるのは、この日にちなみます。
『日本書紀』には、その年の秋に病気になり、10月には病状が重くなったと記されています。具体的な病名は分かっていません。死後は旧暦12月11日から、新宮で遺体を安置して弔う「殯」が行われました。
現在の陵墓は、京都市山科区にある山科陵です。宮内庁では、下が方形で上が円形の「上円下方」という陵形で案内しています。
天智天皇の神話・伝承
即位前の中大兄皇子にとって、蘇我入鹿を倒した乙巳の変は大きな転機でした。『日本書紀』は、決行役のためらいと、それを振り切って動いた皇子の姿を描いています。
表文が終わる前に、動け
以下は、原典で確認できる出来事をもとに、現代の読み物として意訳・再構成しています。原文の逐語訳ではありません。
倉山田石川麻呂の声が、広い殿に響いていた。三韓からの表文を読み上げるその手は、いつの間にか細かく震えている。読み進めれば進めるほど、残された文字が減っていく。
まだか。殿のそばに身を隠す中大兄皇子は、長槍を握る手に力を込めた。宮門はすべて閉じさせてあるのに、斬り込むはずの男たちが出てこない。
狙う相手は、御前に座る蘇我入鹿だ。いつも剣を離さない男から、今日は中臣鎌足が手を回して剣を外させていた。鎌足は弓矢を持って備えたが、刀を渡された佐伯子麻呂らは恐怖にのまれ、口に入れた飯さえ吐き戻していた。
石川麻呂の背を汗が伝った。声が乱れ、表文を持つ手の震えが大きくなる。「なぜ、それほど震えている」と入鹿が問う。石川麻呂は顔を上げた。
「天皇のお近くにいるためです」と答え、また文字へ目を落とす。だが、もう長くは持たない。中大兄皇子は、ためらったままの子麻呂たちを見た。
ここで止まれば、すべてが終わる。
皇子は身を起こし、子麻呂らと一気に飛び出した。入鹿の頭と肩へ斬りつけると、血が衣へ広がった。驚いて立った入鹿の片脚を、子麻呂がさらに斬った。
入鹿は倒れかけながら御座へ寄り、頭を下げた。「私に、何の罪があるというのです」と訴える声が、殿の中に残る。皇極天皇も驚き、中大兄皇子に何が起きたのかを問うた。
皇子は地に伏せた。息を整える間も惜しく、入鹿は皇族を滅ぼし、皇位を奪おうとしているのだと訴える。顔を上げた先で、天皇は立ち上がり、殿の奥へ退いていった。
その後、子麻呂と葛城稚犬養網田が入鹿を斬った。庭には雨が降り込み、水があふれていた。動かなくなった入鹿の身体にむしろがかけられ、中大兄皇子はそれを背に法興寺へ向かった。
決行まで押さえ込んでいた息が、歩くたびに荒く漏れた。入鹿は倒したが、その父の蘇我蝦夷はまだいる。皇子は寺へ集まってきた人々とともに、次の動きに備えた。
翌日、支える者たちを失った蝦夷も命を絶った。朝廷を支配していた親子は、ともにいなくなった。中大兄皇子には、仲間とともに新しい政治を動かす日々が待っていた。
天智天皇ゆかりの神社・祀られている神社
天智天皇を祀る神社には、近江の旧都に根ざしたものと、各地に伝わる行幸伝説を受け継ぐものがあります。現在の祭祀にも、時や文化を大切にする祈り、近江朝の人々をしのぶ信仰、豊作を願う地域の祭りなど、それぞれの特色があります。
近江神宮|滋賀県大津市
近江神宮は、近江大津宮ゆかりの地に鎮座し、天智天皇を天命開別大神として祀る神社です。明治以来の創建運動を経て、1940年11月7日に鎮座しました。遷都の記念日である4月20日には例祭が行われます。
6月10日の漏刻祭では、時計に関わる人々が参列し、時の祖神への感謝を捧げます。境内の時計館宝物館では、和時計をはじめとするさまざまな時計を見られます。また、百人一首の巻頭歌とのゆかりから、かるた開きの儀や競技かるたの大会が行われる場所としても知られています。
石坐神社|滋賀県大津市
大津市西の庄の石坐神社では、天智天皇を天命開別尊として、弘文天皇や伊賀采女宅子媛命などとともに祀っています。社名には、かつて御霊殿山の大岩の上に社があったという由来が伝わります。
八大龍王社とも呼ばれたこの神社には、水の神への信仰と、近江朝の人々をしのぶ祭祀が重なっています。山麓を経て鎌倉時代に現在地へ移ったとされ、本殿は滋賀県指定の文化財です。5月3日の祭礼をはじめ、地域の神社として祭祀が続けられています。
山宮神社(安楽山宮神社)|鹿児島県志布志市
志布志町安楽の山宮神社は、天智天皇を持統天皇、大友皇子などとともに祀る神社です。社伝では、709年に御在所岳の山頂に天智天皇の廟を建て、807年に周辺の神々を合わせて祀り、現在地へ移ったとされています。志布志には天智天皇の来訪を語る伝説があり、この地域で天皇が敬われてきた背景になっています。
2月の春祭では、竹串を稲に見立てて植える御田植の神事や、浜下り、正月踊りが行われます。近隣の安楽神社とともに営む、豊作を願う祭りです。境内には国の天然記念物に指定された大樟もあり、地域の歴史と祭りを受け継いでいます。
天智天皇が祀られている主な神社
| 神社名 | 住所 |
|---|---|
| 山宮神社(田之浦山宮神社) | 鹿児島県志布志市志布志町田之浦 |
田之浦の山宮神社も天智天皇を祀り、御在所岳に廟を建てたという伝承を受け継いでいます。団子を稲穂のように飾る「ダゴ祭り」では、豊作と無病息災が祈られます。
