秩父宮雍仁親王は、秩父地方との深い縁と生前の功績をたたえられ、秩父神社に祀られている皇族です。昭和天皇の弟にあたり、ラグビーやスキーの振興に力を注いだ「スポーツの宮様」としても親しまれました。神として祀られた経緯から、勢津子妃との家族関係、皇嗣だった時期、療養生活を送った晩年まで紹介します。
秩父宮雍仁親王は何の神様?
秩父宮雍仁親王は、秩父地方との縁や生前の功績をたたえられ、御霊を祀られている人物神です。1953年(昭和28年)に秩父神社へ合祀され、祭神の一柱となりました。
祀られる背景には、「秩父宮」という宮号を通じて育まれた地域との交流があります。1922年(大正11年)、成年に達した親王は大正天皇から宮号を授かり、その年の11月に秩父神社を参拝しました。1933年(昭和8年)には勢津子妃とともに秩父地方で約一週間を過ごしています。
親王が亡くなった年、秩父の人々はその功績を末長く伝えようと秩父宮会を結成しました。勢津子妃は、親王が成年式の際に大正天皇から授かった剣を同会に託します。この剣を御霊代、すなわち御霊をお祀りするよりどころとして、秩父神社に親王の御霊が迎えられました。
現在も秩父では、親王をしのび、生前の功績を伝える活動が続いています。
秩父宮雍仁親王の別名・名前の意味
「秩父宮」は宮家の名である宮号、「雍仁」は本人の名前、「親王」は皇族としての身位を表す称号です。「雍仁」は「やすひと」と読み、成年前には淳宮という称号で呼ばれていました。
| 区分 | 名称 |
|---|---|
| 宮号を含む名前 | 秩父宮雍仁親王、秩父宮雍仁親王殿下 |
| 本人の名前と身位 | 雍仁親王 |
| 幼少期の称号 | 淳宮(あつのみや) |
「殿下」は敬称なので、秩父宮雍仁親王殿下も同じ人物を指します。秩父宮の宮号は、武蔵国の名山である秩父の山々にちなんでいます。
皇族が持ち物などに付けるしるしである「お印」は、親王が若松、勢津子妃が菊でした。夫妻が所有していた美術工芸品の箱にも、それぞれの印が残されています。
秩父宮雍仁親王の御神格・ご利益・ご神徳
秩父宮雍仁親王への信仰は、生前の人柄や功績への感謝と、御霊への崇敬を中心としています。参拝先の秩父神社では、暮らしの安全や健康、勝利などを願う祈願が行われています。
秩父宮雍仁親王の御神格
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 御神格 | 生前の功績をたたえて祀られる人物神、秩父神社の祭神 |
秩父神社では、地域と縁を結んだ親王の御霊を祀り、その人柄や働きを伝えてきました。秩父宮会は親王に加え、剣を託した勢津子妃をしのぶ慰霊・顕彰の活動にも取り組んでいます。
秩父宮雍仁親王のご利益・ご神徳
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ご利益 | 家内安全、身体健全、必勝祈願など。いずれも秩父神社全体の祈願 |
| ご神徳 | スポーツ振興や国際親善に尽くした遺徳が敬われています |
親王は「スポーツの宮様」として、競技を広め、その発展を支えた功績が敬われています。健康や必勝は秩父神社全体で受け付ける祈願で、親王だけに固有のご利益として示されているものではありません。
秩父宮雍仁親王の家系図・昭和天皇や勢津子妃との関係
秩父宮雍仁親王は、1902年(明治35年)6月25日、大正天皇と貞明皇后の第二皇子として生まれました。
| 関係 | 人物・説明 |
|---|---|
| 父 | 大正天皇 |
| 母 | 貞明皇后 |
| 兄 | 昭和天皇。大正天皇の第一皇子 |
| 弟 | 高松宮宣仁親王、三笠宮崇仁親王。大正天皇の第三・第四皇子 |
| 妻 | 勢津子妃。外交官・松平恒雄の長女 |
| 子 | 夫妻の間に子供はいませんでした |
勢津子妃とは1928年(昭和3年)9月28日に結婚しました。1937年(昭和12年)には夫妻で英国へ渡り、昭和天皇の名代として国王ジョージ6世の戴冠式に参列しています。
勢津子妃は1939年(昭和14年)の結核予防会設立時から総裁を務め、親王の死後も長く結核の予防活動を続けました。妃が亡くなったのは1995年(平成7年)8月25日です。
皇嗣だった時期と皇太子との違い
1926年(大正15年)12月25日に昭和天皇が即位してから、1933年(昭和8年)12月23日に明仁親王、のちの上皇が生まれるまでの約7年間、秩父宮雍仁親王は皇位継承順位の第一位にありました。その意味で、次に皇位を継ぐ立場の「皇嗣」でした。
「皇嗣」は皇位を継ぐ第一順位の人を指し、「皇太子」は皇嗣である天皇の皇子を指します。秩父宮雍仁親王は天皇の弟だったため、皇太子とは呼ばれていません。昭和天皇に第一皇子が生まれたことで、その継承順位は第二位になりました。
秩父宮雍仁親王の生涯と逸話
秩父宮雍仁親王は陸軍の軍人として歩む一方、スポーツの振興と国際交流に熱心に取り組みました。ラグビー場の建設では、療養中にもかかわらず現場を訪れ、工事を担う人々を励ました逸話が残っています。
「スポーツの宮様」とラグビーのつながり
親王は1925年(大正14年)に英国へ渡り、オックスフォード大学で学びました。登山やスキーなどを愛好し、日英協会や、日本とスウェーデンの交流を図る日本瑞典協会の総裁も務めています。
1947年(昭和22年)には日本ラグビーフットボール協会の総裁に就任しました。同年、東京の旧女子学習院跡地に完成したのが東京ラグビー場です。親王は、多くのラグビー関係者とともにその建設を支えました。
1952年(昭和27年)にオックスフォード大学のチームが来日した際には、療養中の身で競技場を訪れ、選手たちと握手しています。翌1953年(昭和28年)に親王が亡くなると、その功績をしのんで「秩父宮ラグビー場」と改称されました。ラグビー場の名に残る「秩父宮」は、この親王に由来しています。
親王の身長については、確かな数値が分かっていません。スポーツを愛した姿は、残された写真や競技を支えた活動から伝わっています。
雨の建設現場で
東京ラグビー場の建設を進めていた香山蕃は、雨の日に親王が現場を訪れた姿を回想しています。この逸話は、日本スポーツ振興センターの球場史でも紹介されています。
以下は、日本スポーツ振興センターが紹介する香山蕃の回想に基づき、情景や心情を補って読み物として再構成しています。回想そのものの引用ではありません。
雨に濡れた地面を、ゴムの長靴が踏んでいく。香山蕃は、そこに立つ人を見て息をのんだ。病を抱える秩父宮雍仁親王が、建設中のラグビー場まで来ていた。
まだ、試合を迎えられる場所ではない。協会には十分な金がなく、仲間たちは私物を手放して資金を集め、自分たちの手も工事に貸していた。香山は、雨に濡れながら作業を進める人々へ目を向けた。
親王は工事を担う人々を励ました。そして、鹿島の関係者に向き直り、資金に乏しい協会に力を貸してほしいと頼んだ。言葉に続いて、その頭が下がる。
香山はすぐに声を出せなかった。視界がにじみ、こらえようとするほど涙があふれてくる。雨の中で頭を下げるその姿から、目を離せなかった。
死因となった肺結核と療養生活
秩父宮雍仁親王は肺結核のため、1953年(昭和28年)1月4日、50歳で亡くなりました。1940年(昭和15年)から長い療養生活を送り、葉山や御殿場、鵠沼で過ごしています。最期の地は神奈川県藤沢市の鵠沼の別邸でした。
御殿場での暮らしでは、勢津子妃が看病の傍らで畑を耕し、体調が回復した時期には親王も農作業をしました。戦中から戦後の食糧難のなか、芋やカボチャなどを育て、自給自足を生活に取り入れています。親王は陶芸にも打ち込み、作品を残しました。
また、自身の体を死後に医学のために役立てたいとの遺志により、病理解剖が行われました。
秩父宮雍仁親王ゆかりの神社・祀られている神社
秩父宮雍仁親王を祭神として祀る秩父神社は、宮号を通じて交流を重ねた秩父の地にあります。御霊をしのぶ祭りが毎年行われ、地域の人々によって受け継がれています。
生前に訪れた神社としては、1922年(大正11年)の宝登山神社、1925年(大正14年)の三峯神社の記録も残っています。
⇒【J-STAGE】秩父宮の秩父訪問記録(本文5頁)はこちら
秩父神社|秩父の人々が御霊を祀る社
埼玉県秩父市番場町の秩父神社は、秩父宮雍仁親王を、八意思兼命・知知夫彦命・天之御中主神とともに祀っています。親王は1953年(昭和28年)に合祀された祭神です。
毎年5月3日の「秩父宮祭」では、御本殿で親王の御霊をしのぶ祭りが行われ、秩父宮会の関係者も参列します。また、1958年(昭和33年)に境内で始まった三道大会も続いており、4月29日には剣道と弓道、5月3日には柔道の大会が行われます。
秩父神社は12月の秩父夜祭でも知られます。夜祭は古くからの妙見信仰に由来し、親王をしのぶ5月の祭りとはそれぞれ異なる由緒を持っています。
生涯を伝える記念公園と墓所
静岡県御殿場市の秩父宮記念公園は、夫妻が暮らした旧別邸を受け継ぐ施設です。勢津子妃の遺言によって御殿場市へ贈られ、2003年(平成15年)4月に開園しました。神として祀る神社とは別に、療養生活や夫妻の日常を伝える場所です。
親王の墓は、東京都文京区の豊島岡皇族墓所にあります。
