野崎隠岐守綱吉は、戦国時代に高島の人々を海賊から救い、死後に島の守り神として祀られた武士です。
現在は佐賀県唐津市の宝当神社の御祭神として、宝くじ当選や金運、勝負運などのご利益で知られています。
この記事では、野崎隠岐守綱吉の生涯や神様として祀られた理由、海賊退治の伝承、宝当神社のご利益について詳しく紹介します。
野崎隠岐守綱吉は何の神様?
野崎隠岐守綱吉は、佐賀県唐津市の高島で、島を守った英雄として祀られている神様です。もともとは戦国時代の武士で、島を襲った海賊を退治した功績から、亡くなった後も島民に大切にされてきました。
綱吉は信濃国(現在の長野県)の出身と伝わり、九州の武将に仕えた後、家臣同士の対立によって高島へ移り住みました。
当時の高島では製塩業が盛んでしたが、海賊による略奪も起きており、島民の暮らしが脅かされていました。綱吉は30人余りの海賊を相手に奮戦し、これを撃退。さらに、降伏して命乞いをした海賊たちを許したという逸話も残されています。
綱吉の死後、島民はその墓所に祠を建て、「島の大権現」として祀るようになりました。この祠が現在の宝当神社の始まりです。
現在は島の守り神としての信仰に加え、金運や勝負運、開運招福など、さまざまな願いを託される神様として親しまれています。
野崎隠岐守綱吉の別名・読み方
| 名称 | 読み方・説明 |
|---|---|
| 野崎隠岐守綱吉 | ノザキオキノカミツナヨシ |
| 野崎隠岐守綱吉命 | ノザキオキノカミツナヨシノミコト。宝当神社の祭神表記 |
| 野崎綱吉 | ノザキツナヨシ。人物名の略称 |
| 野崎綱吉公 | 敬意を込めた呼び方 |
| 綱吉様 | 神社や地域で親しまれている呼称 |
名前にある「隠岐守(オキノカミ)」は、もともと隠岐国を治める地方官の官職名です。
戦国時代の武士には、このような官職名を通称として名乗る習慣がありました。野崎綱吉も隠岐守という呼称で伝えられています。
神様として祀られる際には、名前に「命」を加えた野崎隠岐守綱吉命という表記が用いられています。
野崎隠岐守綱吉の生涯と神格化
野崎隠岐守綱吉は、天文23年(1554年)に信濃国諏訪で生まれたと伝わっています。
戦国武将として九州で活躍した後、現在の佐賀県唐津市にある高島へ移り住みました。その後、島民を海賊から救ったことが、死後に神様として祀られるきっかけとなりました。
大友義鎮・草野鎮永に仕えた武将
綱吉は若い頃、豊後国の戦国大名・大友義鎮(オオトモヨシシゲ/後の大友宗麟)に仕え、幾度も軍功を挙げて恩賞を授かったと伝わっています。
その武勇を認められ、肥前国の草野城主・草野鎮永(クサノシゲナガ)のもとへ迎えられました。
神社の由緒によると、元亀4年、龍造寺隆信(リュウゾウジタカノブ)が5400騎もの軍勢を率いて草野城を包囲します。綱吉は久国という武将とともに前線で奮戦し、龍造寺軍を退けました。
ところが、この活躍が草野家の重臣たちの妬みを買ってしまいます。重臣たちは綱吉を疎ましく思い、城に居づらくなるように仕向けたため、綱吉は草野城を去ることになったと伝えられています。
高島への移住と海賊退治
綱吉は3人の供を連れ、夜の闇に紛れて小舟に乗り込み、唐津湾に浮かぶ高島へ渡りました。
当時、この一帯では筑前国吉井の海賊・火山神九郎(カザンジンクロウ)の一味が恐れられていました。
ある日、その手下30人余りが高島を襲い、島民の家から穀物や金銭を奪い取ります。
襲撃を聞きつけた綱吉は浜辺へ駆けつけ、海賊船に飛び乗って応戦。激しい戦いの末、海賊たちを打ち破り、生き残った5人の命を許したと伝えられています。
この戦い以降、綱吉の武勇を恐れた周辺の海賊たちは、高島を襲わなくなったとされています。
塩屋神社の建立と晩年
綱吉は天正9年(1581年)、島民と相談し、祖先を祀る宮を建立しました。これが現在の塩屋神社の始まりと伝わっています。
当時の高島では、海水から塩を作る製塩業が盛んでした。塩屋神社という名前にも、島の暮らしを支えてきた塩とのつながりが残されています。
建立された宮には、その後、島の産土神として大山祇大神も合祀され、高島の氏神として信仰されるようになりました。
野崎隠岐守綱吉はなぜ死後に神様として祀られた?
綱吉は天正13年8月23日、高島で突然病に倒れ、32歳で亡くなったと伝えられています。
島民にとって綱吉は、海賊の襲撃から自分たちの暮らしを救ってくれた恩人でした。その死を厚く弔い、墓所に祠を建てて「島の大権現」として祀りました。
島民は、亡くなった後も綱吉が自分たちの島を守ってくれることを願ったのです。
宝当神社では現在も、綱吉の命日に由来する「二十三夜祭」が行われています。島の英雄を神様として敬う信仰が、長く受け継がれてきました。
野崎隠岐守綱吉の御神格・ご利益・ご神徳
野崎隠岐守綱吉は、島の人々を守った武士として神格化された人物です。現在は宝当神社の御祭神として、宝くじ当選や金運隆昌をはじめ、仕事や人生の大切な勝負に臨む人々からも信仰されています。
野崎隠岐守綱吉の御神格
| 御神格 | 神格化された武士、高島の守り神、勝運・開運の神 |
|---|
綱吉は、島を脅かしていた海賊を退治し、人々の暮らしを守った功績によって神として祀られました。
また、多勢の海賊を相手に勝利した武人としての由緒から、勝運を授ける神としても信仰されています。
野崎隠岐守綱吉のご利益・ご神徳
| ご利益・ご神徳 | 宝くじ当選祈願、金運隆昌、勝負運、出世運、開運招福、家内安全、身体健全、子宝祈願 |
|---|
現在の宝当神社では、宝くじ当選や金運隆昌が特によく知られています。そのほか、会社の入札や試験合格など、大切な勝負に臨む際の祈願も受け付けています。
神社では、願いに合わせたさまざまな授与品も用意されています。
| 授与品 | 祈願内容・特徴 |
|---|---|
| 必当守 | 宝くじなどの当たり運を願うお守り |
| 金運守 | 金運の上昇を願うお守り。西方の守護神・白虎が描かれている |
| 財布金運守 | 財布に納められるカード型のお守り。白虎と昇竜が描かれている |
| 勝利をつかむ守 | 勝負の場面で幸運を引き寄せ、勝利を願うお守り |
| 宝授守 | 子宝をはじめ、それぞれの人にとって大切な宝が授かるよう願うお守り |
| 身守 | 身体健全や厄除けを願うお守り |
| 大開運守 | 運が大きく開け、福を招くよう願うお守り |
もともと島の暮らしを守る神として敬われてきた綱吉ですが、現在では金運や勝運に加え、健康や家族の幸せなど、幅広い願いが寄せられています。
野崎隠岐守綱吉の家系図・関係人物
野崎隠岐守綱吉の家族については、長男・吉綱(ヨシツナ)の名が伝わっています。
また、綱吉は藤原鎌足を祖先とする家系の人物とされ、塩屋神社には藤原氏の祖先を祀った由緒が残されています。
| 関係 | 人物・内容 |
|---|---|
| 長男 | 吉綱(ヨシツナ)。幼名は馬之助 |
| 祖先と伝わる人物 | 藤原鎌足 |
| 祖先と伝わる人物 | 藤原不比等(フジワラノフヒト) |
| 祖先と伝わる人物 | 藤原魚名(フジワラノウオナ) |
| 最初に仕えた武将 | 大友義鎮(オオトモヨシシゲ) |
| その後に仕えた武将 | 草野鎮永(クサノシゲナガ) |
野崎隠岐守綱吉の子孫
宝当神社の詳しい由緒には、綱吉の長男として吉綱の名前が記されています。幼名は馬之助といい、天正12年に高島で生まれたと伝えられています。
現在の高島にも野崎姓の住民が多く暮らしており、島内でよく見られる名字として知られています。
ただし、吉綱から現在までの詳しい家系図や、現在の野崎姓の住民一人ひとりと綱吉との血縁関係は明らかになっていません。
藤原鎌足との関係
綱吉は、藤原鎌足を祖先とする人物と伝わっています。
藤原鎌足は飛鳥時代に中大兄皇子を支えた政治家で、藤原不比等はその子、藤原魚名は不比等の孫にあたります。
綱吉は高島に塩屋神社を建立した際、この3人を祖先として祀ったとされています。現在も塩屋神社には、藤原鎌足命・藤原不比等命・藤原魚名命が御祭神として祀られています。
野崎隠岐守綱吉の伝承
野崎隠岐守綱吉には、高島を襲った30人余りの海賊を撃退したという伝承が残っています。
船の帆柱を武器にして激しく戦い、最後には生き残った5人の海賊を許したという話です。
高島を襲った海賊と野崎綱吉の戦い
以下は、宝当神社に伝わる由緒の出来事をもとに、現代の読み物として意訳・再構成した物語です。原文の逐語訳ではありません。
船の上には、島民から奪った穀物や金銭が山のように積み上げられていた。
高島を襲ったのは、筑前国吉井の海賊・火山神九郎の一味。その手下30人余りを率いる吉井荊娯(ヨシイケイゴ)は、島の家々を襲い、財産を奪い取っていた。
略奪を終えた海賊たちは、船をつないでいた綱を解いた。奪った品はすでに積み込み、あとは島を離れるだけだった。
その襲撃を聞きつけた男がいた。
野崎隠岐守綱吉。
かつて草野城で敵の大軍を退けながら、味方の妬みによって居場所を失い、この島へ渡ってきた武士だった。
知らせを受けた綱吉は、浜辺へ向かって駆け出した。目の前には、奪われた品を満載した海賊船がある。船はすでに岸を離れようとしていた。
綱吉は勢いよく砂浜を蹴った。
次の瞬間、その身体が海賊船へと飛び移る。
突然現れた武士に、海賊たちは目を見張った。しかし、綱吉は彼らが武器を構えるのを待たなかった。船の帆柱に両手を掛けると、そのまま力任せに引き抜いたのだ。
太い柱が横一文字に振り抜かれる。
目の前にいた海賊たちが、まとめてなぎ倒された。足を取られた男たちが折り重なり、悲鳴が船上に響く。あまりに突然の襲撃に、海賊たちは一瞬で混乱に陥った。
だが、相手は30人を超える大人数だ。
「囲め! 一人だ!」
海賊たちはそれぞれ武器を取り、綱吉へ向かってきた。
綱吉が一人を投げ飛ばす。その間にも、別の男たちが次々と迫ってくる。前から、横から、背後から。綱吉は身体をひねって攻撃をかわし、帆柱を振るい、つかみかかってきた相手を投げ飛ばした。
狭い船上での激しい戦いは続いた。
綱吉も無傷では済まなかった。傷口から血が流れ、打ちつけられた身体には激しい痛みが走る。それでも倒れるたびに身体を起こし、向かってくる海賊を一人、また一人と打ち倒していった。
先ほどまで大勢で綱吉を囲んでいた男たちが、次々とその場に倒れていく。
そして、ついに海賊たちの攻撃が止んだ。
立っているのは、わずか5人。
彼らは武器を捨て、奪った穀物や金銭を綱吉の前に差し出した。先ほどまで島民を脅していた男たちが、今度は自分たちの命を助けてほしいと訴えている。
綱吉は5人を見据えた。
自分の身体にも傷が残っている。彼らが奪った品を返したところで、島民が味わった恐怖も、すぐに消えるものではない。
しかし、目の前の男たちは武器を捨て、降伏していた。
綱吉は彼らを諭し、その命を許した。
5人は奪った品を差し出したまま、深く頭を下げた。命を奪われると覚悟していた海賊たちは、綱吉の赦しによって生き延びることになったのだ。
高島を襲った海賊たちは、こうして敗れ去った。
この戦いの噂は、やがて周辺の海賊たちにも伝わっていく。高島には、30人余りの賊を相手に戦い抜く武士がいる。
綱吉の武勇を恐れた海賊たちは、その後、二度と高島を襲わなくなったと伝えられている。
⇒【Hontake 神社巡り&御朱印収集】宝当神社の詳しい由緒(転載)はこちら
野崎隠岐守綱吉はなぜ宝くじの神様になった?
現在、宝当神社といえば宝くじの当選祈願で知られていますが、その信仰が全国的に広まったのは平成に入ってからです。
きっかけとなったのは、明治時代に奉納された鳥居に刻まれた「寶當」という文字でした。
「寶當神社」という名前の由来
1901年(明治34年)、高島では製塩業が盛んになり、島の暮らしが潤いました。
島民は綱吉への感謝を込め、綱吉を祀る神社を島の宝と称え、「寶當神社」と刻んだ石造りの鳥居を奉納しました。
この頃から、宝当神社という名前で親しまれるようになったと伝わっています。
島民にとって、海賊から島を守ってくれた綱吉は、まさに島の宝と呼ぶべき恩人だったのです。
平成に入って宝くじの当選祈願が広まった
1992年(平成4年)、高島では島おこしの取り組みが進められていました。
その中で島民が着目したのが、宝当神社の縁起のよい名前です。「寶當」という文字を「宝が当たる」と読むことで、宝くじの当選祈願と結びつけました。
この発想から、宝くじを入れる縁起物の「宝当袋」が考案され、翌1993年には島おこしの取り組みとして販売が始まります。
その後、宝当袋を利用した人や神社に参拝した人から高額当選の話が寄せられるようになり、テレビや新聞、雑誌などでも紹介されました。
こうして宝当神社は、島の守り神を祀る神社から、全国の宝くじファンが訪れる金運・開運の神社としても知られるようになりました。
野崎隠岐守綱吉ゆかりの神社・祀られている神社
野崎隠岐守綱吉にゆかりのある神社として、佐賀県唐津市の高島に鎮座する宝当神社と塩屋神社があります。
宝当神社は綱吉自身を祀る神社であり、塩屋神社は生前の綱吉が島民とともに建立したと伝わる神社です。
宝当神社(佐賀県唐津市)
| 所在地 | 佐賀県唐津市高島523 |
|---|---|
| 御祭神 | 野崎隠岐守綱吉命 |
| 主なご利益 | 宝くじ当選祈願、金運隆昌、勝負運、出世運、開運招福 |
宝当神社は、野崎隠岐守綱吉を御祭神として祀る神社です。
綱吉の墓所に建てられた祠に由来し、現在も社殿の裏手には墓所に由来する石祠が残されています。
宝くじの当選祈願で全国的に知られていますが、島の守り神としての信仰も続いており、綱吉の命日に由来する二十三夜祭も行われています。
授与品には、当たり運を願う「必当守」や「金運守」のほか、人生の大切な勝負に向けた「勝利をつかむ守」などがあります。また、高島の塩にちなんだ「禊塩」「かなう塩」も授与されています。
唐津城近くの宝当桟橋から高島までは、定期船で約10分。島の船着き場から宝当神社までは徒歩約1分です。
塩屋神社(佐賀県唐津市)
| 所在地 | 佐賀県唐津市高島 |
|---|---|
| 主な御祭神 | 大山祇大神、 須佐之男命、 菅原道真命、 藤原鎌足命、 藤原不比等命、 藤原魚名命 |
| 綱吉との関係 | 綱吉が島民と協力して建立したと伝わる神社 |
塩屋神社は、高島の氏神として親しまれている神社です。
天正9年(1581年)、綱吉が島民と相談し、祖先として伝わる藤原鎌足・藤原不比等・藤原魚名を祀ったことに始まるとされています。
その後、島の産土神として大山祇大神を迎え、明治40年頃には菅原道真命も合祀されました。
主祭神の大山祇大神は山の神として知られるほか、瀬戸内海の水軍や海上交通に関わる人々からも厚く信仰されてきました。
現在も高島の氏神として、祈年祭や夏越祭、秋季大祭の「高島くんち」などが行われています。
