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乃木希典(ノギマレスケ)とは? | 神様図鑑

乃木希典ノギマレスケは、明治時代に陸軍軍人として活動し、日露戦争では旅順要塞を攻めた第3軍の司令官を務めた人物です。戦後は学習院長となり、教育にも深く関わりました。

1912年に明治天皇メイジテンノウが亡くなると、大喪の日に妻の乃木静子ノギシズコとともに殉死します。その死は社会に大きな衝撃を与え、死後は忠誠や誠を重んじた人物として祭祀されるようになりました。

現在は東京をはじめ各地の乃木神社で祭神として祀られています。一方で、旅順攻囲戦で大きな犠牲を出したことから軍人としての評価は分かれており、「愚将だったのか」という議論も続いています。

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目次

乃木希典ノギマレスケは何の神様?何をした人?

乃木希典ノギマレスケは、神話に登場する神ではありません。幕末から明治時代を生きた実在の軍人で、死後にその生き方を敬う人々によって祭神として祀られるようになった人物です。

軍人としては、西南戦争、日清戦争、日露戦争などに参加しました。1887年にはドイツへ渡って軍事制度や戦術を学び、日清戦争では歩兵第1旅団長として出征しています。その後は第3代台湾総督などを務めました。

乃木希典ノギマレスケの名前を特に有名にしたのが日露戦争です。1904年に陸軍大将となり、第3軍司令官としてロシア軍が守る旅順要塞の攻略を任されました。

旅順は砲台や堡塁、塹壕などを備えた強固な要塞でした。第3軍は多くの死傷者を出しながら二〇三高地や要塞正面の砲台を攻略し、1905年1月にロシア軍を降伏させました。

乃木希典ノギマレスケ自身も、この戦争で二人の息子を失っています。長男の勝典は南山の戦いで戦死し、次男の保典も旅順攻囲戦の中で戦死しました。

戦争が終わると、乃木希典ノギマレスケは軍事参議官となり、1907年には明治天皇メイジテンノウの意向を受けて第10代学習院長に就任します。学習院では「質実剛健」を重んじ、中等学科・高等学科の全寮制がとられる中、自らも院長官舎を使わず学生寮の一角で生活しました。

軍人、台湾総督、教育者という複数の経歴を持ち、最後は明治天皇メイジテンノウへの殉死によって生涯を終えました。この最期と、それまでの生き方が重なり、死後の乃木信仰へつながっていきます。

乃木希典ノギマレスケはどんな人物だった?

乃木希典ノギマレスケには、厳格な軍人という印象があります。しかし、生涯を見ていくと、それだけでは分からない面もあります。

幼少期の乃木希典ノギマレスケは、体があまり丈夫ではなく、泣き虫な少年だったと伝えられています。幼名の「無人(なきと)」には、先に亡くなった兄たちの分まで丈夫に育ってほしいという願いが込められていたと乃木神社は伝えています。

大人になってからは自分自身にも厳しい生活を続けました。その姿がよく分かるのが学習院長時代です。

1907年に第10代学習院長となった乃木希典ノギマレスケは、学生に「質実剛健」を求めました。目白移転後に中等学科・高等学科が全寮制となると、自らも院長官舎を使わず学生寮の一角で生活しています。

その一方で、乃木希典ノギマレスケの人生には強い自責と結びつく出来事もありました。西南戦争では、自分が率いていた部隊の連隊旗を敵に奪われています。この軍旗喪失を長く恥じていたと伝えられています。

さらに日露戦争では、多くの部下と二人の息子を失いました。厳しさ、忠誠、教育への熱心さとともに、失敗や死者への自責を抱えた人物としても伝えられています。

乃木希典ノギマレスケはなぜ神として祀られている?

乃木希典ノギマレスケが神として祀られるようになった大きなきっかけは、1912年の明治天皇メイジテンノウの死と、それに続く乃木夫妻の殉死です。

明治天皇メイジテンノウは1912年7月30日に崩御しました。大喪が行われた9月13日、御霊轜が宮城を出発した頃、乃木希典ノギマレスケと乃木静子ノギシズコは自宅で自刃しました。

乃木夫妻の死後、二人が暮らしていた東京の乃木邸には多くの人が訪れるようになります。1913年には当時の東京市長・阪谷芳郎らによって中央乃木会が組織され、乃木邸内の小社で夫妻の御霊を祀る祭儀が行われるようになりました。

1919年には乃木神社の創立が許可され、1923年に現在の東京・乃木神社で鎮座祭が行われています。

つまり、乃木希典ノギマレスケは「日露戦争で勝った軍人だから神になった」というだけではありません。軍人としての経歴、明治天皇メイジテンノウへの忠誠、学習院長としての教育、質素で厳しい生活、そして大喪の日に殉死したことが重なり、その生き方を敬う人々が増えていきました。その崇敬が祭祀へ発展し、乃木神社の創建につながっています。

一方、殉死は当時から誰もが称賛したわけではありません。忠誠を貫いた行為として受け止める人がいた一方、近代社会で殉死することへの批判もありました。そのように評価が分かれる中でも祭祀は続き、現在まで乃木神社の信仰として受け継がれています。

乃木希典ノギマレスケの別名・呼ばれ方

乃木希典ノギマレスケは歴史上の人物なので、神話の神のように多くの異名を持つわけではありません。ただし、幼い頃の名前や軍人としての呼び方、祭神としての表記があります。

区分名称
本名乃木希典ノギマレスケ
幼名無人(なきと)
通称・呼び方乃木大将ノギタイショウ、乃木将軍ノギショウグン
祭神名乃木希典命ノギマレスケ

乃木大将ノギタイショウや乃木将軍ノギショウグンは別人を示す名前ではなく、陸軍大将となった乃木希典ノギマレスケを指す呼び方です。乃木神社では、祭神として乃木希典命ノギマレスケと表記されています。

乃木希典ノギマレスケの御神格・ご利益・ご神徳

乃木希典ノギマレスケの信仰は、本人の生涯と深く結びついています。特に忠誠、文武両道、学問が重んじられ、妻の乃木静子ノギシズコとともに祀られていることから夫婦和合とも結びついています。

乃木希典ノギマレスケの御神格

御神格忠誠・誠と結びつく祭神、文武両道・学問の神

乃木希典ノギマレスケは自然現象や産業を司る神ではなく、実在した人物の生涯を背景に祀られている祭神です。

東京の乃木神社では、ご神徳を特に「忠誠」という言葉で表しています。また、長く軍人として活動した一方、晩年には学習院長として教育に携わり、詩歌・漢詩・書なども残しました。そのため「武」と「文」を備えた人物として、文武両道や学問の神ともされています。

乃木希典ノギマレスケのご利益

ご利益学業成就、家庭円満、夫婦和合など

学業成就の信仰には、乃木希典ノギマレスケが学習院長として教育に携わった経歴があります。院長という立場にありながら学生寮の一角で生活し、学生の近くで教育にあたりました。

乃木静子ノギシズコも乃木希典ノギマレスケとともに祭神として祀られているため、夫婦和合や家庭円満とも結びついています。また函館乃木神社では、日清・日露戦争などの経歴にちなむ「勝守」も授与されています。

乃木希典ノギマレスケのご神徳

ご神徳忠誠、文武両道、学問、夫婦和合

乃木希典ノギマレスケのご神徳として特に強く示されているのが忠誠です。これは戦争で功績を残したことだけを指すものではなく、明治天皇メイジテンノウに仕え、最後にはその大喪の日に殉死した生涯と結びついています。

学習院長として教育に尽くした姿から文武両道や学問、乃木静子ノギシズコとともに祀られることから夫婦和合という信仰も生まれています。

乃木希典ノギマレスケの家族・関係人物

乃木希典ノギマレスケの人生では、父、妻、二人の息子、明治天皇メイジテンノウ、そして日露戦争で戦ったロシア軍司令官ステッセルなどが大きく関わっています。

人物関係
乃木希次父
乃木静子ノギシズコ妻
乃木勝典長男
乃木保典次男
明治天皇メイジテンノウ乃木希典ノギマレスケが仕えた天皇
アナトーリイ・ステッセル旅順要塞を守ったロシア軍司令官
児玉源太郎日露戦争時の満洲軍総参謀長

乃木希典ノギマレスケの父・希次は、幼い息子を厳しく育てた人物です。後世には勇敢な軍人という印象が強い乃木希典ノギマレスケですが、幼い頃は体があまり丈夫ではなく、泣き虫だったと伝えられています。

1878年には乃木静子ノギシズコと結婚しました。二人の間には勝典と保典という息子がいましたが、ともに日露戦争で戦死します。勝典が戦死した後も乃木希典ノギマレスケは第3軍司令官として旅順へ向かい、その旅順攻囲戦では保典も戦死しました。

明治天皇メイジテンノウとの関係は晩年に大きく関わります。天皇の意向を受けて学習院長となり、天皇の死後には殉死しました。ステッセルとは旅順で敵同士として戦いましたが、降伏後には水師営で会見しています。

乃木希典ノギマレスケの伝承・エピソード

乃木希典ノギマレスケには、西南戦争での軍旗喪失、二人の息子の戦死、学習院での生活など、多くのエピソードがあります。中でも有名なのが、旅順要塞が降伏した後に行われたロシア軍司令官ステッセルとの「水師営の会見」です。

水師営の会見|乃木希典ノギマレスケとステッセル

以下は、史料で確認できる出来事をもとに、現代の読み物として意訳・再構成しています。原文や会話記録の逐語訳ではありません。

1905年1月。何か月にもわたって続いた旅順の戦いが、ようやく終わろうとしていた。

ロシア軍が旅順要塞の降伏を決めたことで、第3軍司令官・乃木希典ノギマレスケは勝者となった。しかし、その勝利の背後にはあまりにも多くの死者がいた。乃木希典ノギマレスケ自身も例外ではない。

長男・勝典は南山で倒れた。次男・保典も、旅順をめぐる激戦の中で命を落としている。勝利という言葉だけでは片づけられない数の死が、戦場には残されていた。

1月5日、乃木希典ノギマレスケは水師営でロシア軍司令官アナトーリイ・ステッセルと対面した。数日前まで、互いの兵士が殺し合っていた軍の最高指揮官同士だった。

会見を前に、明治天皇メイジテンノウからは、祖国のために戦ったステッセルの名誉を重んじるよう意向が伝えられていた。そのため、ステッセルをはじめとするロシア側将校には帯剣が認められた。

敗軍の将から剣を奪い、降伏した姿をさらすような会見にはしなかった。乃木希典ノギマレスケとステッセルは幕僚たちとともに一枚の写真へ収まった。

写真の中では、日本側とロシア側の将校が一緒に並んでいる。そこに写っているのは、数日前まで激しい戦いを続けていた両軍の指揮官たちだった。

会談では、ステッセルが二人の息子を戦争で失った乃木希典ノギマレスケに哀悼の意を示したとも伝えられている。

乃木希典ノギマレスケにとって旅順陥落は勝利だった。しかし同時に、二人の息子と数多くの兵士を失った戦いの終わりでもあった。

水師営の会見は、旅順攻略という軍事上の出来事だけでなく、戦いを終えた後に敗れた相手をどう扱ったのかという乃木希典ノギマレスケのエピソードとして、後世まで語られることになった。

⇒【アジア歴史資料センター】水師営での会見に際し、乃木・ステッセル両将軍が幕僚たちと撮った写真はこちら

乃木希典ノギマレスケはなぜ切腹したのか?

乃木希典ノギマレスケが1912年9月13日に自刃した直接の形は、明治天皇メイジテンノウへの殉死です。

明治天皇メイジテンノウは同年7月30日に崩御しました。9月13日には大喪が行われ、御霊轜が宮城を出発した頃、乃木希典ノギマレスケは乃木静子ノギシズコとともに自宅で命を絶ちました。

ただし、乃木希典ノギマレスケがなぜ死を選んだのかは「明治天皇メイジテンノウが亡くなったから」という理由だけは片づけることができないと考えられています

1877年の西南戦争では、自分が率いていた歩兵第14連隊の連隊旗を敵軍に奪われました。乃木希典ノギマレスケはこの出来事を長く悔やんでいたとされています。

日露戦争では、旅順攻略のために多くの兵士が死傷しました。乃木希典ノギマレスケ自身も長男・勝典と次男・保典を相次いで失っています。戦争が終わった後も戦死者の慰霊に関わり続けました。

乃木希典ノギマレスケが旅順戦後に自決を願い、明治天皇メイジテンノウから自分が生きている間は死なないよう止められたという逸話も広く知られています。

確実なのは、乃木希典ノギマレスケが明治天皇メイジテンノウの大喪の日を選び、殉死という形で生涯を終えたことです。その死が強烈な印象を残し、忠誠を体現した人物として敬う動きをさらに広げ、死後の祭祀へつながりました。

乃木希典ノギマレスケは愚将だった?評価が分かれる理由

乃木希典ノギマレスケは、旅順攻囲戦での指揮に対しての評価から「愚将」と囁かれることもあります

乃木希典ノギマレスケが愚将と呼ばれる理由

最大の理由は、旅順攻囲戦で第3軍が非常に大きな犠牲を出したことです。ロシア軍の要塞へ日本軍が攻撃を重ね、多くの兵士が死傷したため、第3軍司令官だった乃木希典ノギマレスケの指揮は厳しい批判の対象になりました。

第3軍に同行していたイギリス人従軍記者エリス・アシュミード=バートレットも、戦後に出版した旅順戦の記録で日本軍の攻撃戦術を厳しく批判しています。後世には小説や映像作品の影響もあり、「正面から兵士を突撃させ続けた司令官」というイメージが広がりました。

大きな犠牲を出した旅順攻囲戦の最高指揮官であった以上、乃木希典ノギマレスケの指揮が批判されてきたこと自体は事実です。

「愚将」像だけでは分からないこと

乃木希典ノギマレスケは、旅順攻囲戦で多くの死傷者を出したことから、「兵士を何度も正面から突撃させた愚将」と評されることがあります。

しかし実際の戦闘では、同じ場所へ同じ方法で攻撃を繰り返していただけではありません。第3軍は戦況に応じて攻撃する場所や方法を変えており、1904年11月には二〇三高地へ攻撃の重点を移しました。12月6日に二〇三高地を占領した後も要塞の砲台を攻略し、1905年1月に旅順要塞を降伏させています。

そのため、「乃木希典ノギマレスケは何も考えず兵士を突撃させ続けた」という人物像は、実際の戦闘経過とは合いません。

ただし、旅順攻略で非常に多くの死傷者を出したことは事実です。その大きな犠牲を乃木希典ノギマレスケの指揮の問題として重く見るか、当時の旅順要塞の強さや攻城戦そのものの難しさも含めて見るかによって、軍人としての評価は分かれています。

乃木希典ノギマレスケの海外での評価

乃木希典ノギマレスケは、旅順要塞を攻略した第3軍司令官として海外にも名前を知られるようになりました。ただし、海外でも軍人として一様に高く評価されていたわけではありません。

旅順攻囲戦には各国の観戦武官や外国人記者が同行していました。その一人、イギリス人記者エリス・アシュミード=バートレットは旅順戦を現地で取材し、戦後の著書で日本軍の攻撃戦術を厳しく批判しています。

一方、乃木希典ノギマレスケは旅順要塞を実際に陥落させた司令官であり、水師営で敗軍の将ステッセルの名誉を保つ扱いをしたことも国外へ伝えられました。

海外から見た乃木希典ノギマレスケにも、旅順を攻略した司令官としての名声と、大きな損害を出した軍事指揮への批判という二つの面がありました。

乃木希典ノギマレスケゆかりの神社・祀られている神社

乃木希典ノギマレスケは死後、東京だけでなく各地で祀られるようになりました。乃木神社が各地に生まれた背景も同じではなく、夫妻が暮らした土地に建てられた神社もあれば、地域の人々が追悼祭や祭祀を始めたことから成立した神社もあります。

乃木神社(東京都港区)

東京都港区赤坂にある乃木神社は、乃木希典命ノギマレスケと乃木静子命ノギシズコを祀る代表的な神社です。すぐ隣には乃木夫妻が暮らした旧乃木邸があります。

1912年に乃木夫妻が亡くなると乃木邸を訪れる人が増え、翌年には中央乃木会が設立されました。乃木邸内の小社で夫妻の御霊を祀る祭儀が続けられ、1919年に神社創立が許可されます。

1923年に鎮座祭が行われ、現在まで乃木希典命ノギマレスケと乃木静子命ノギシズコが祀られています。忠誠、文武両道、学問、夫婦和合など、現在の乃木信仰を知るうえで中心となる神社です。

⇒乃木神社のご利益・属性・見どころを詳しく見る

乃木神社(栃木県那須塩原市)

栃木県那須塩原市の乃木神社も、乃木希典命ノギマレスケと乃木静子命ノギシズコを祀っています。神社の北東には乃木夫妻の別邸があり、乃木希典ノギマレスケは休職期間にここで農耕に取り組み、地元の人々とも交流しました。

夫妻の葬儀当日には別邸で遥拝式が行われ、その場で神社創立が提議されました。地元住民を中心に創建が進み、1916年に鎮座しています。

同社では文武両道、夫婦和合に加え、乃木希典ノギマレスケが自ら田畑を耕したことにちなむ「土徳勧農」も御神徳として掲げています。

⇒乃木神社公式サイトはこちら

函館乃木神社(北海道函館市)

北海道函館市の函館乃木神社も、乃木希典ノギマレスケと乃木静子ノギシズコを祀っています。

函館での祭祀は、乃木夫妻が亡くなった1912年12月21日に函館教育会が行った百日祭から始まりました。1916年には同会の有志によって現在地に神社が創建され、同年9月13日に鎮座祭が行われています。

現在は「誠実」「夫婦和合」「文武両道」「学問」などと結びついて信仰され、学業の御守や勝守なども授与されています。東京や那須とは異なり、遠く函館で起こった追悼の動きから祭祀が育った神社です。

⇒函館乃木神社公式サイトはこちら

参考・出典

乃木希典の生涯や経歴、旅順攻囲戦、学習院長時代、乃木神社の由緒・ご神徳については、以下の資料を参考にしています。

⇒【国立国会図書館】乃木希典|近代日本人の肖像はこちら

⇒【防衛省 防衛研究所】日露戦争120年―日露戦争に関する旧日本陸海軍の史料―はこちら

⇒【学校法人学習院】学習院の歴史はこちら

⇒【乃木神社】乃木神社の由緒はこちら

⇒【乃木神社】乃木希典命のご神徳はこちら

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