徳川家康は、戦国時代を生き抜き、江戸幕府を開いた実在の武将です。1616年に亡くなった後は「東照大権現」という神号を受け、現在も久能山東照宮や日光東照宮をはじめ、各地の東照宮で神様として祀られています。
徳川家康は生前から、自分の死後にどこへ葬り、どこで祀るかを具体的に指示していました。その遺命をもとに祭祀が始まり、2代将軍・徳川秀忠や南光坊天海らによって東照大権現として祀る形が整えられました。
この記事では、徳川家康が歴史上どのような人生を歩み、何をした人物だったのか、人間だった徳川家康がなぜ神様になったのか、東照大権現や薬師如来との関係、ご利益、現在祀られている神社まで紹介します。
徳川家康は何の神様?
徳川家康は、死後に「東照大権現」という神号を受け、東照宮で祀られる神となった人物です。久能山東照宮では平和の守護神・国家鎮護の神として崇敬され、上野東照宮では出世・勝利・健康長寿のご利益で信仰されています。
徳川家康は1600年の関ヶ原の戦いを経て全国の大名を従える立場となり、1603年に征夷大将軍となって江戸幕府を開きました。1605年には将軍職を徳川秀忠へ譲り、その後も大御所として徳川政権の基礎を固めています。
徳川家康が亡くなる直前には、遺体を久能山へ葬り、一周忌の後に日光山へ自分を勧請するよう指示しました。徳川家康自身が、死後に「関八州の鎮守」となって関東を守ることを望んでいたと伝わっています。
死後には朝廷から「東照大権現」の神号を受け、将軍家による祭祀が続けられました。やがて徳川家康を祀る東照宮が各地に造られ、武士や庶民にも信仰が広がっていきます。
徳川家康はどんな人物?何をした人?
徳川家康は、1542年に三河国の岡崎城で生まれた戦国武将です。幼名を竹千代といい、父は松平広忠、母は於大でした。
幼いころから戦国大名同士の争いに巻き込まれ、人質として織田氏や今川氏のもとで過ごします。その後、三河で独立し、織田信長や豊臣秀吉が天下を争った時代を生き抜き、最後には江戸幕府を開きました。
人質として育った竹千代から三河の大名へ
徳川家康が生まれた松平氏は三河を本拠とする武士の一族でした。当時の三河周辺では、尾張の織田氏と駿河の今川氏などが勢力を争っており、松平氏もその影響を強く受けていました。
幼い竹千代もその争いに巻き込まれ、人質として織田氏、続いて今川氏のもとで暮らします。成長すると今川氏のもとで武将として活動し、松平元信、のちに松平元康と名乗りました。
1560年、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、徳川家康は三河で独立へ動き始めます。織田信長と同盟を結び、三河を固めながら遠江へ勢力を広げていきました。
三方ヶ原で大敗しながら勢力を伸ばす
徳川家康は数多くの戦いを経験しています。その中でも大きな敗北として知られるのが、1572年の三方ヶ原の戦いです。
遠江へ進んできた武田信玄と戦った徳川軍は大敗し、徳川家康自身も浜松城へ退却しました。その後も織田信長と協力して武田氏と戦い、少しずつ領国を広げていきます。
1582年に織田信長が本能寺の変で亡くなると、天下の情勢は大きく変わりました。徳川家康は豊臣秀吉と小牧・長久手の戦いで争った後、豊臣秀吉に臣従します。
1590年、小田原攻めによって北条氏が滅ぶと、徳川家康は関東へ移りました。ここで新しい本拠となったのが江戸です。
関ヶ原の戦いに勝利し江戸幕府を開く
1598年に豊臣秀吉が亡くなると、豊臣政権を支えていた大名たちの対立が激しくなります。
1600年、徳川家康を中心とする東軍と、石田三成らを中心とする西軍が関ヶ原で戦いました。東軍が勝利したことで、徳川家康は全国の大名に大きな影響力を持つようになります。
1603年には征夷大将軍となり、江戸幕府を開きました。1605年には将軍職を三男の徳川秀忠へ譲り、自身は大御所として政治への影響力を持ち続けます。
将軍職を早く徳川秀忠へ渡したことで、徳川氏が将軍職を受け継いでいく形も示されました。
大坂の陣を経て徳川政権の基礎を固める
江戸幕府が開かれた後も、大坂城には豊臣秀吉の子・豊臣秀頼がいました。
1614年の大坂冬の陣、1615年の大坂夏の陣を経て豊臣氏は滅亡します。同じ1615年には武家諸法度や禁中並公家諸法度などが整えられ、大名や朝廷と幕府との関係を定める仕組みも作られていきました。
徳川家康が築いた徳川政権は、2代将軍徳川秀忠、3代将軍徳川家光へと受け継がれます。徳川家康は天下を争った戦国武将であると同時に、その後長く続く江戸幕府の土台を作った人物でした。
学問や医学にも強い関心を持っていた
徳川家康は書物を集め、歴史や政治に関する本の出版にも力を入れました。学問や制度にも強い関心を持っていた人物です。
医学や薬学にも詳しく、医学書・薬学書を読み、自ら薬を調合して服用していたことが知られています。健康管理にも熱心で、長く活動を続けた徳川家康の人物像を伝える一面です。
後に東照大権現の本地仏とされた薬師如来との宗教的なつながりは、神と仏を結びつける神仏習合の考え方の中で形づくられました。
徳川家康はなぜ神様になった?
徳川家康が神様として祀られるようになった出発点には、本人が残した死後の祭祀に関する遺命があります。
その遺命に従って久能山で祭祀が始まり、南光坊天海らが徳川家康を神として祀る形を整え、朝廷から「東照大権現」の神号が与えられました。その後は江戸幕府の創始者、徳川家の祖として歴代将軍から厚く崇敬され、信仰は武士や庶民にも広がりました。
徳川家康自身が死後の祀られ方を指示していた
1616年、病状が悪化した徳川家康は、本多正純、南光坊天海、以心崇伝らを呼び、死後について指示を残しました。
遺体は駿河国の久能山に葬ること、葬儀は江戸の増上寺で行うこと、三河の大樹寺には位牌を納めること、そして一周忌の後には日光山に小堂を建て、自分を勧請することです。
徳川家康は日光に祀られた後、「関八州の鎮守」となる意向を伝えたとされています。関八州は関東八か国を指し、自分が死んだ後も関東を守る存在となることを望んでいました。
同年4月17日に徳川家康が亡くなると、その遺命に従って久能山へ葬られました。4月19日には久能山に仮殿が造営され、徳川家康を祀る祭祀が始まりました。
東照大権現とは徳川家康の神としての名前
「東照大権現」は、徳川家康が神として祀られる際に与えられた神号です。
徳川家康の死後、どのような神号で祀るかをめぐり、以心崇伝は「明神」、南光坊天海は「権現」を主張しました。最終的に2代将軍・徳川秀忠が「権現」を選びます。
南光坊天海は、豊臣秀吉が死後に「豊国大明神」として祀られ、その後に豊臣家が滅亡した例も挙げて「権現」を主張しました。
その後、幕府は朝廷に徳川家康の神号を求めます。朝廷からは「東照大権現」「日本大権現」「威霊大権現」「東光大権現」の4候補が示され、その中から「東照大権現」が選ばれました。
1617年2月21日、徳川家康は「東照大権現」の神号を受け、同年3月には正一位も追贈されています。
「権現」とはどんな意味?
「権現」は、神と仏が一緒に信仰されていた時代に使われた言葉です。
当時の神仏習合では、仏が日本の人々を救うために神の姿となって現れることがあると考えられていました。仏が仮の姿として現れた神を「権現」と呼びます。
東照大権現も、この考え方によって神と仏の両方につながる存在として祀られました。江戸時代の日光では、神道と仏教が深く結びついた形で徳川家康の祭祀が行われていました。
徳川家康と薬師如来の関係
東照大権現の本地仏は、薬師如来です。
「本地仏」とは、神の本来の姿と考えられた仏を指します。江戸時代の信仰では、薬師如来が神の姿となって現れた存在として東照大権現が位置づけられていました。
日光に造られた東照社にも薬師如来を祀る薬師堂が設けられました。徳川家康の年忌には、東照大権現の本地仏である薬師如来を祀り、僧侶たちが経を読む大規模な仏教の法要も行われています。
後世に徳川家康の生涯を描いた『東照宮御縁起』には、徳川家康の母が三河国の鳳来寺で子授けを祈る場面があります。鳳来寺の本尊も薬師如来で、東照大権現と薬師如来のつながりを伝える物語の一つとなりました。
徳川家の祖として将軍たちに祀られた
東照大権現となった徳川家康は、徳川将軍家の祖として厚く祀られました。
1617年には2代将軍徳川秀忠が日光へ参詣しています。その後も歴代将軍による日光社参が行われ、江戸幕府15代までに将軍の日光社参は合計19回行われました。
3代将軍徳川家光は徳川家康への崇敬が特に厚く、1636年の二十一回忌に合わせて日光の社殿を大規模に造り替えました。現在の日光東照宮につながる壮麗な社殿群は、この時期に整えられています。
東照宮信仰は庶民にも広がった
東照大権現への信仰は、将軍や大名から一般の人々にも広がっていきました。
江戸時代の日光東照宮には、将軍・大名・公家に加えて、武士や庶民も参詣しています。参詣者が増えるにつれて、日光の社寺や祭礼を紹介する案内書も出版されました。
江戸では、徳川家康の命日である4月17日に東照宮を勧請した寺社への参拝が行われました。東照宮参りは、江戸の人々にとって年中行事の一つとして親しまれるようになります。
徳川家康の別名・神号
徳川家康は、生涯の中で何度か名前を変えています。さらに死後には、神としての名前である「東照大権現」が加わりました。
| 区分 | 名前 |
|---|---|
| 幼名 | 竹千代 |
| 松平氏時代 | 松平元信、松平元康 |
| 徳川姓を称した後 | 徳川家康 |
| 死後の神号 | 東照大権現 |
| 敬称・呼称 | 神君、東照公など |
「東照大権現」は武将として使った名前ではなく、死後に神として祀られるために与えられた神号です。
江戸時代には、幕府の創始者である徳川家康を敬って「神君家康公」と呼ぶ表現も使われました。
徳川家康の御神格・ご利益・ご神徳
久能山東照宮では平和の守護神・国家鎮護の神として崇敬され、上野東照宮では出世・勝利・健康長寿のご利益で信仰されています。徳川家康の生涯や江戸幕府を開いた実績と結びつきながら、現在の信仰へ受け継がれています。
徳川家康の御神格
| 御神格 | 徳川家の祖として祀られる神、平和の守護神、国家鎮護の神 |
|---|
徳川家康は江戸幕府を開き、徳川氏による政権の基礎を築きました。死後は徳川将軍家の祖として厚く祀られ、東照大権現への祭祀が幕府の中で続けられます。
久能山東照宮では、現在も徳川家康を平和の守護神・国家鎮護の神として崇敬しています。
徳川家康のご利益
| ご利益 | 出世、勝利、健康長寿など |
|---|
上野東照宮では、出世・勝利・健康長寿に特にご利益があるとして信仰されています。
幼少期に人質となった徳川家康は、戦国時代の激しい争いを生き抜き、最終的に征夷大将軍となって江戸幕府を開きました。この生涯から、出世や勝利を願う信仰につながっています。
徳川家康は当時として長く生きた人物で、医学や薬学にも強い関心を持っていました。現在では健康長寿を願って東照宮を訪れる人もいます。
徳川家康のご神徳
| ご神徳 | 平和守護、国家鎮護など |
|---|
久能山東照宮では、徳川家康は平和の守護神・国家鎮護の神として祀られています。
徳川家康の死後、東照宮信仰は各地へ広がり、江戸幕府の時代を通じて祭祀が続けられました。現在も各地の東照宮で徳川家康が御祭神として祀られています。
徳川家康の家系図・家族
徳川家康は松平広忠と於大の間に生まれ、のちに多くの子をもうけました。
2代将軍となった徳川秀忠のほか、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家につながる息子たちがいます。主な家族をまとめると次の通りです。
| 関係 | 人物 |
|---|---|
| 父 | 松平広忠 |
| 母 | 於大 |
| 正室 | 築山殿 |
| 長男 | 松平信康 |
| 三男 | 徳川秀忠 |
| 九男 | 徳川義直 |
| 十男 | 徳川頼宣 |
| 十一男 | 徳川頼房 |
| 孫 | 徳川家光 |
徳川秀忠は徳川家康から将軍職を受け継ぎ、2代将軍となりました。徳川家康の死後には久能山での社殿造営や神号の決定にも関わり、父を東照大権現として祀る体制を整えました。
徳川義直は尾張徳川家、徳川頼宣は紀伊徳川家、徳川頼房は水戸徳川家の祖となります。三家は「徳川御三家」と呼ばれ、江戸時代の徳川家を支える家となりました。
孫の徳川家光は徳川家康への崇敬が厚く、二十一回忌に合わせて日光の社殿を大規模に造り替えています。
徳川家康の神格化に関わった人物
徳川家康が東照大権現として祀られるまでには、2代将軍徳川秀忠のほか、南光坊天海や以心崇伝も深く関わりました。
南光坊天海は天台宗の僧で、徳川家康を「権現」として祀ることを主張しました。以心崇伝は臨済宗の僧で「明神」を主張し、最終的に徳川秀忠の裁定によって「権現」が採用されます。
徳川家康本人の遺命を出発点として、徳川秀忠による祭祀、南光坊天海らによる宗教的な仕組み、朝廷からの神号が重なり、東照大権現としての祭祀が形づくられていきました。
伝承:徳川家康の最期と東照大権現になるまで
徳川家康は死を前に、自分の死後について具体的な指示を残しました。その遺命から久能山での祭祀が始まり、徳川家康は東照大権現という神号を受け、日光にも勧請されます。
「関八州の鎮守になろう」―死後まで見据えた徳川家康
以下は、史料で確認できる出来事をもとに、現代の読み物として意訳・再構成しています。原文の逐語訳ではありません。
1616年。駿府城へ戻った徳川家康の身体は病に蝕まれていた。幾度も戦場をくぐり抜け、織田信長も豊臣秀吉も去った時代を生き抜いた男にも、最後の時が近づいていた。
4月2日、徳川家康は本多正純、南光坊天海、以心崇伝らを呼んだ。そこで語り始めたのは、目の前の戦や政治ではない。自分が死んだ後のことだった。
遺体は久能山へ葬る。葬儀は江戸の増上寺で行う。三河の大樹寺には位牌を納める。
そして一周忌が過ぎた後には、日光山に小堂を建て、自分を勧請するよう命じた。
「関八州の鎮守になろう」
徳川家康は、自らが築いた徳川の世を死後も見守る存在として祀られる道を残した。
4月17日、徳川家康は駿府城で75年の生涯を終えた。しかし、残した指示はすぐに動き始める。遺骸は久能山へ葬られ、4月19日には幕府が仮殿を造営し、徳川家康を祀る祭祀が始まった。
次に決めなければならなかったのは、徳川家康をどのような神として祀るかだった。以心崇伝は「明神」を唱え、南光坊天海は「権現」を主張した。
南光坊天海は豊臣秀吉の例を挙げた。豊臣秀吉は死後に豊国大明神として祀られたが、豊臣家は大坂の陣で滅亡している。
徳川家康にどの神号を与えるのか。2代将軍・徳川秀忠が選んだのは「権現」だった。
幕府は朝廷へ神号を願い出た。東照大権現、日本大権現、威霊大権現、東光大権現。示された四つの候補から選ばれた名前は、「東照大権現」だった。
1617年2月21日。戦国武将として生き、江戸幕府を開いた徳川家康は、東照大権現という神号を受けた。
徳川家康の遺命に従い、日光にも東照大権現が勧請された。のちに3代将軍徳川家光が壮大な社殿を整え、日光は徳川家が祖・徳川家康を祀る大きな祭祀の場となっていく。
さらに時代が進むと、日光を訪れるのは将軍や大名ばかりではなくなった。武士が参り、庶民も参り、日光参詣の案内書まで作られた。
三河に生まれ、人質として育ち、戦国の世を生き抜き、最後には江戸幕府を開いた徳川家康。
その生涯は1616年に終わった。東照大権現となった徳川家康への信仰は、その後も人々の間に受け継がれていった。
⇒【国立公文書館】「徳川家康―将軍家蔵書からみるその生涯―」はこちら
徳川家康ゆかりの神社・祀られている神社
徳川家康を御祭神として祀る神社は「東照宮」と呼ばれ、全国各地にあります。
徳川家康の遺命から直接始まった久能山、死後の祭祀の重要な場所となった日光、江戸の人々にも親しまれた上野など、それぞれに異なるつながりがあります。
久能山東照宮
久能山東照宮は、静岡県静岡市に鎮座する神社です。全国の東照宮の創祀で、徳川家康を御祭神として祀っています。
徳川家康は死を前に、自分の遺体を久能山へ葬るよう指示しました。1616年に亡くなると遺命に従って久能山へ埋葬され、2代将軍徳川秀忠の命で社殿が造営されます。
1617年には朝廷から「東照大権現」の神号が与えられ、徳川家康を祀る祭祀が整えられていきました。
現在も久能山東照宮では、徳川家康を平和の守護神、国家鎮護の神として祀っています。徳川家康の死と神格化の始まりに直接つながる神社です。
日光東照宮
日光東照宮は、栃木県日光市に鎮座する徳川家康ゆかりの代表的な神社です。
徳川家康は生前、一周忌が過ぎた後に日光山へ小堂を建て、自分を勧請するよう指示していました。その遺命に従い、日光で東照大権現を祀る祭祀が始まります。
3代将軍徳川家光の時代には、1636年の二十一回忌に合わせて大規模な造営が行われました。現在につながる壮麗な社殿群は、この時期に整えられたものです。
江戸時代には歴代将軍の社参が行われ、武士や庶民も多く参詣しました。日光は東照大権現への信仰が全国へ広がる大きな中心地となりました。
上野東照宮
上野東照宮は、東京都台東区の上野公園に鎮座する神社です。1627年に創建され、徳川家康を御祭神として祀っています。
現在の社殿は、3代将軍徳川家光によって1651年に造営されたものです。遠く日光まで参詣することが難しい江戸の人々にとっても、徳川家康を身近に拝むことのできる場所となりました。
現在は徳川家康のほか、徳川吉宗、徳川慶喜も祀られています。
出世・勝利・健康長寿に特にご利益があるとされ、現在も多くの参拝者が訪れています。
徳川家康が祀られている主な神社
| 神社名 | 住所 |
|---|---|
| 世良田東照宮 | 群馬県太田市 |
| 鳳来山東照宮 | 愛知県新城市 |
| 芝東照宮 | 東京都港区 |
| 水戸東照宮 | 茨城県水戸市 |
| 紀州東照宮 | 和歌山県和歌山市 |
世良田東照宮は、徳川氏発祥の地とされる群馬県太田市世良田に鎮座しています。鳳来山東照宮は、徳川家康の父母が鳳来寺の薬師如来へ子授けを祈願したという伝承と深く関わる東照宮です。
芝東照宮は、徳川家康が生前に作らせた等身大の寿像を御神体として祀ります。水戸東照宮は徳川家康の十一男・徳川頼房、紀州東照宮は十男・徳川頼宣によって創建されました。
こうした東照宮が各地に造られたことで、徳川家康を祀る信仰は徳川一門や各地域へ広がり、現在まで受け継がれています。
