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崇峻天皇(すしゅんてんのう)は何の神様?暗殺の理由・家系図・聖徳太子との関係 | 神様図鑑

崇峻天皇スシュンテンノウは、飛鳥時代の587年に即位した第32代天皇です。歴史上の天皇であり、死後は大阪の堀越神社で主祭神として祀られています。

その生涯で特に知られているのが、蘇我馬子による暗殺です。なぜ天皇が臣下によって殺されることになったのか、誰が実際に手を下したのか、推古天皇や聖徳太子とはどのような関係だったのかまで詳しく紹介します。

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目次

崇峻天皇スシュンテンノウは何の神様?どんな人物?

崇峻天皇スシュンテンノウは、第32代天皇として実際に皇位に就き、死後に神社の祭神として祀られた人物です。父は欽明天皇、母は蘇我稲目の娘・小姉君で、即位前は泊瀬部皇子と呼ばれていました。

崇峻天皇スシュンテンノウが即位する直前の朝廷では、蘇我馬子と物部守屋の対立が激しくなっていました。587年に戦いへ発展すると、泊瀬部皇子も蘇我馬子側に加わります。のちに聖徳太子と呼ばれる厩戸皇子も同じ側で戦いました。

物部守屋が敗れて亡くなると、蘇我馬子は朝廷でさらに大きな力を持つようになります。その後、炊屋姫尊と群臣から即位を勧められ、泊瀬部皇子は崇峻天皇スシュンテンノウとなりました。

崇峻天皇スシュンテンノウの時代は、日本で仏教文化が本格的に広がっていく時期でもあります。百済から僧や寺院建築、瓦、絵画などに関わる人々が渡来し、法興寺の造営も進みました。

朝鮮半島をめぐる動きも続きます。591年には任那をめぐる問題に対応するため、二万人を超える軍勢が筑紫へ送られました。しかし軍勢が朝鮮半島へ渡る前の592年、崇峻天皇スシュンテンノウは蘇我馬子の命令を受けた東漢直駒によって殺害されます。

崇峻天皇スシュンテンノウはなぜ神様として祀られている?

現在、崇峻天皇スシュンテンノウを主祭神として祀っている代表的な神社が、大阪市天王寺区の堀越神社です。

堀越神社には、推古天皇の時代に聖徳太子が叔父である崇峻天皇スシュンテンノウの徳を偲び、四天王寺建立とともに神社を創建したという由緒が伝わっています。

つまり、堀越神社に伝わる「神として祀られた理由」は、聖徳太子が亡くなった叔父の徳を偲んだことです。暗殺された天皇の祟りを鎮めるために創建したという話も見受けられますが、由緒とは異なります。

崇峻天皇スシュンテンノウの読み方・別名

崇峻天皇スシュンテンノウは「すしゅんてんのう」と読みます。

「崇峻天皇」は後世に贈られた漢風諡号です。古い史料では、即位前の名前に由来する別の表記でも登場します。

区分 名前・読み
現在の一般的な呼び名 崇峻天皇スシュンテンノウ(すしゅんてんのう)
『日本書紀』 泊瀬部天皇ハツセベノスメラミコト(はつせべのすめらみこと)
『古事記』 長谷部若雀天皇ハツセベノワカササギノスメラミコト(はつせべのわかささぎのすめらみこと)
その他の呼称 倉橋天皇クラハシノスメラミコト(くらはしのすめらみこと)

『日本書紀』では泊瀬部天皇ハツセベノスメラミコト、『古事記』では長谷部若雀天皇ハツセベノワカササギノスメラミコトと記されています。

崇峻天皇スシュンテンノウの御神格・ご利益・ご神徳

崇峻天皇スシュンテンノウは、実際に皇位に就いた天皇が死後に祭神として祀られた存在です。現在の信仰は、主に崇峻天皇スシュンテンノウを主祭神とする堀越神社に受け継がれています。

崇峻天皇スシュンテンノウの御神格

御神格 第32代天皇、堀越神社の主祭神

崇峻天皇スシュンテンノウは587年から592年まで皇位にありました。物部氏と蘇我氏の争いが決着し、日本の仏教文化が大きく動き始めた時代の天皇です。

堀越神社では、聖徳太子が叔父である崇峻天皇スシュンテンノウの徳を偲んで祀ったと伝えています。歴史上の天皇を主祭神として敬う信仰が現在まで続いています。

崇峻天皇スシュンテンノウのご利益

ご利益 一生に一度の願い、ひと夢祈願、厄除けなど堀越神社に伝わる信仰

堀越神社には古くから、「一生に一度の願いを聞いてくださる神さん」という言い伝えがあります。現在は、一つの願いを短冊に書いて祈る「ひと夢祈願」も行われています。

また、男性の42歳の厄年には、東向きの神社へ参拝すると厄除けになるという信仰も伝わっています。これらは崇峻天皇スシュンテンノウの生前の特定の出来事から生まれたというより、堀越神社で長く受け継がれてきた信仰です。

崇峻天皇スシュンテンノウのご神徳

ご神徳 一生に一度の願いを聞く神としての信仰、厄除け

堀越神社では、「一生に一度の願いを聞いてくださる神さん」という信仰が現在まで伝わっています。特定の産業や自然現象を守る神という形ではなく、人々の願いや厄除けの祈りを受ける祭神として崇敬されています。

崇峻天皇スシュンテンノウの家系図・関係する人物

崇峻天皇スシュンテンノウは欽明天皇の皇子です。母の小姉君は蘇我稲目の娘で、崇峻天皇スシュンテンノウ自身も当時大きな政治力を持っていた蘇我氏と近い血縁関係にありました。

関係 人物
父 欽明天皇
母 小姉君
母方の祖父 蘇我稲目
同母兄 穴穂部皇子
異母兄 敏達天皇、用明天皇など
異母姉 推古天皇
妃 大伴小手子
嬪 河上娘
子 蜂子皇子、錦代皇女
母方の叔父 蘇我馬子
甥 厩戸皇子(聖徳太子)

崇峻天皇スシュンテンノウの母・小姉君と蘇我馬子は、ともに蘇我稲目の子です。後に崇峻天皇スシュンテンノウの暗殺を命じる蘇我馬子は、天皇にとって母方の叔父でした。

さらに蘇我馬子の娘・河上娘は崇峻天皇スシュンテンノウの嬪となっています。崇峻天皇スシュンテンノウと蘇我馬子は、天皇と大臣という政治上の関係に加え、複数の血縁・婚姻関係で結ばれていました。

大伴小手子との間には蜂子皇子と錦代皇女が生まれています。出羽三山神社には、父である崇峻天皇スシュンテンノウが暗殺された後、蜂子皇子が都を離れて出羽へ向かい、羽黒山を開いたという伝承が残されています。

崇峻天皇スシュンテンノウと推古天皇の関係

崇峻天皇スシュンテンノウと推古天皇は、欽明天皇を父に持つ異母姉弟です。

推古天皇の母・堅塩媛と、崇峻天皇スシュンテンノウの母・小姉君は、ともに蘇我稲目の娘でした。そのため二人は父を同じくする姉弟で、母親同士も姉妹という近い血縁関係にあります。

587年に物部守屋が滅ぼされると、当時は炊屋姫尊と呼ばれていた推古天皇と群臣が泊瀬部皇子に即位を勧めました。こうして崇峻天皇スシュンテンノウが誕生します。

592年に崇峻天皇スシュンテンノウが殺害されると皇位が空き、群臣は炊屋姫尊に即位を求めました。炊屋姫尊は同年12月に第33代推古天皇として即位します。

崇峻天皇スシュンテンノウと聖徳太子の関係

崇峻天皇スシュンテンノウは、聖徳太子の叔父にあたります。

聖徳太子の父・用明天皇と崇峻天皇スシュンテンノウは、ともに欽明天皇の皇子です。『日本書紀』では、聖徳太子は厩戸皇子として登場します。

587年の物部守屋との戦いでは、泊瀬部皇子と厩戸皇子がともに蘇我馬子側へ加わりました。二人は叔父と甥という血縁だけでなく、同じ軍勢で物部氏と戦った関係でもあります。

その後、泊瀬部皇子は崇峻天皇スシュンテンノウとなり、592年に暗殺されました。堀越神社には、推古天皇の時代に聖徳太子が叔父・崇峻天皇スシュンテンノウの徳を偲んで祀ったという創建伝承が残されています。

さらに後世には、聖徳太子が崇峻天皇スシュンテンノウの死を予告したという説話も生まれました。この話は後の「伝承・史実」で紹介します。

崇峻天皇スシュンテンノウの死因は暗殺 | 誰に殺された?

崇峻天皇スシュンテンノウは592年、蘇我馬子が計画した暗殺によって亡くなりました。実際に天皇を殺害したのは、馬子の命令を受けた東漢直駒です。

誰が殺したのかを分けると、暗殺を命じた人物が蘇我馬子、実行した人物が東漢直駒です。

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崇峻天皇スシュンテンノウはなぜ暗殺された?死因は?

崇峻天皇スシュンテンノウは592年、蘇我馬子の命令を受けた東漢直駒によって暗殺されました。

『日本書紀』が伝える直接のきっかけは、一頭の猪をめぐる出来事です。592年10月、崇峻天皇スシュンテンノウのもとへ猪が献上されると、天皇は「この猪の首を斬るように、いつになったら自分が憎いと思っている者を斬れるだろう」という趣旨の言葉を口にしました。さらに宮中には、普段より多くの武器が用意されていました。

この話を知った蘇我馬子は、自分が天皇から狙われていると恐れ、先に崇峻天皇スシュンテンノウを殺害する計画を進めます。『日本書紀』の別伝では、大伴小手子が天皇からの寵愛が衰えたことを恨み、猪を前にした発言や宮中に武器が集められていることを蘇我馬子へ知らせたとも記されています。

そして592年11月3日、蘇我馬子は群臣に「今日は東国からの調を進上する」という趣旨の知らせを出して人々を集め、東漢直駒に崇峻天皇スシュンテンノウを殺害させました。『日本書紀』には具体的な殺害方法までは記されていません。

崇峻天皇スシュンテンノウと蘇我馬子の関係が、なぜ殺害に至るほど悪化したのかという根本的な理由は一つに確定していません。当時は物部氏の滅亡後に蘇我馬子が朝廷で大きな力を持っており、そうした政治状況の中で二人の対立が深まり、猪の一件が暗殺へ動き出す直接の引き金となりました。

崇峻天皇スシュンテンノウは殺害されたその日のうちに倉梯岡陵へ葬られました。

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暗殺した東漢直駒はその後どうなった?

東漢直駒の話は、崇峻天皇スシュンテンノウの暗殺だけでは終わりません。

崇峻天皇スシュンテンノウが亡くなった同じ月、東漢直駒は蘇我馬子の娘であり、天皇の嬪だった河上娘を連れ去って自分の妻としました。

馬子は当初、娘の行方を知らず、亡くなったと思っていました。やがて河上娘を東漢直駒が妻にしていたことが発覚すると、馬子は東漢直駒を殺害させます。

崇峻天皇スシュンテンノウを殺した実行者も、その直後に命を落としました。

聖徳太子は崇峻天皇スシュンテンノウの暗殺を予言していた?

後世には、聖徳太子が崇峻天皇スシュンテンノウの死を予言していたという説話が伝わっています。

鎌倉時代の日蓮が1277年に書いた『崇峻天皇御書』には、聖徳太子が崇峻天皇スシュンテンノウの人相を見て、人に殺される相があると告げたという話が登場します。さらに、天皇が猪を見て人を殺したいという趣旨の言葉を口にすると、聖徳太子が言葉を慎むよう戒めたという話も描かれています。

こうした予言の場面は、592年の暗殺事件を記した『日本書紀』には登場しません。しかし、約700年後に突然まったく関係のない話が付け加えられたというより、その間に大きく広がった聖徳太子信仰が背景にあります。

『日本書紀』の時点でも、聖徳太子には「まだ起きていないことをあらかじめ知る」という人物像が記されています。その後、平安時代から中世にかけて聖徳太子の伝説が増え、未来を見通す聖人・予言者としても語られるようになりました。

一方、崇峻天皇スシュンテンノウについては、『日本書紀』に、猪を前にして憎い者を斬りたいという趣旨の言葉を発し、その話を知った蘇我馬子によって殺害されたという強烈な事件が残されています。

そこで後世になると、「未来を見通す聖徳太子なら、叔父である崇峻天皇スシュンテンノウの危険な言動や死の運命も見抜いていた」という形の説話が生まれやすくなりました。実際にいつ、誰が最初にこの予言の話を作ったのかは分かっていませんが、中世にはすでに聖徳太子を予言者として見る土壌ができていました。

また、日蓮が『崇峻天皇御書』でこの話を取り上げたのには理由があります。この手紙は、短気な性格だった弟子の四条金吾を戒めるために書かれたもので、崇峻天皇スシュンテンノウが怒りに任せて発した言葉から身を滅ぼしたという話を、「言葉と怒りを慎むべきだ」という教訓として使っています。

つまり、聖徳太子による暗殺予言の説話は、崇峻天皇スシュンテンノウの実際の暗殺事件と、後世に広がった「未来を見通す聖徳太子」という伝説が重なって生まれたものと考えられます。

崇峻天皇スシュンテンノウは祟り神・怨霊になったと言われる説について

崇峻天皇スシュンテンノウが怨霊や祟り神と結びつけて語られる背景には、その異例の最期があります。

日本では後の時代、政治争いに敗れたり、無念を残して非業の死を遂げたりした人物の霊が、怨霊となって災いを起こすという考えが広がりました。崇峻天皇スシュンテンノウは、天皇でありながら臣下の蘇我馬子に殺害を命じられた人物です。その死は、後世の人々が「強い恨みを残した霊」を連想しやすいものでした。

さらに崇峻天皇スシュンテンノウは、殺害されたその日のうちに倉梯岡陵へ葬られています。当時の天皇の葬送では、遺体を一定期間安置して儀式を行う「殯(もがり)」が行われましたが、崇峻天皇スシュンテンノウには長い殯の期間がありませんでした。

臣下によって突然命を奪われ、その日のうちに葬られた天皇。この異例の死と葬送が、後世の御霊信仰や怨霊の考え方と結びつき、崇峻天皇スシュンテンノウを「荒ぶる天皇の霊」と見る説へつながっていきました。

実際、後世の怨霊を扱った書籍では、崇峻天皇スシュンテンノウについて「七日七夜の霊障」や「七日七夜荒ぶる天皇霊」といった題で取り上げられています。

また、「崇峻」の「崇」という字を「祟り」の「祟」と関連づけ、非業の死を遂げた天皇に与えられた名ではないかと見る説もあります。こうした説も重なり、崇峻天皇スシュンテンノウは後世に怨霊・祟り神のイメージと結びつけて語られるようになりました。

崇峻天皇スシュンテンノウの伝承・史実

崇峻天皇スシュンテンノウの生涯で最も大きな事件が、592年の暗殺です。一頭の猪を前に天皇が口にした言葉を蘇我馬子が知り、臣下が天皇を殺害するという事件へ進んでいきます。

「あの猪の首のように」―崇峻天皇スシュンテンノウ暗殺

以下は、原典で確認できる出来事をもとに、現代の読み物として意訳・再構成しています。原文の逐語訳ではありません。

592年10月。倉梯の宮へ、一頭の猪が献上された。すでに命を失った大きな身体を、崇峻天皇スシュンテンノウはじっと見下ろしていた。

やがて天皇の視線が猪の首で止まる。「いつになれば、この猪の首を斬るように、朕が憎いと思っている者を斬ることができるのだろうな」。その場の空気が一瞬で張りつめた。

天皇は誰の名前も口にしない。だが宮中には、いつもより多くの武器が集められていた。刀や槍が並ぶ物々しい光景を前に、ただの思いつきとして聞き流せる言葉ではなかった。

やがて、その言葉は蘇我馬子の耳へ届く。馬子は朝廷で大きな力を持つ大臣であり、天皇の母・小姉君の兄弟でもあった。崇峻天皇スシュンテンノウにとって、馬子は母方の叔父にあたる。

五年前には、泊瀬部皇子だった崇峻天皇スシュンテンノウと蘇我馬子は同じ側に立ち、物部守屋を攻めた。その戦いに勝利し、泊瀬部皇子はやがて天皇となった。そして今、その天皇が誰かを殺したいと口にし、宮には武器が集められている。

馬子の胸に恐怖が走る。天皇が憎んでいる相手は、自分なのではないか。天皇が先に動けば、次に首を失うのは自分かもしれない。

馬子は待たなかった。仲間を集め、崇峻天皇スシュンテンノウを殺す計画を進める。血縁も、かつて同じ敵と戦った過去も、二人の間に生まれた殺意を止めることはできなかった。

11月3日。馬子は群臣へ「今日は東国からの調を進上する」と知らせた。朝廷へ貢ぎ物を差し出す日だと聞かされ、人々が集まってくる。

表向きは、いつもの朝廷の営みと変わらない。しかしその裏では、すでに一人の男へ命令が下されていた。その男の名は、東漢直駒。

命じられた標的は第32代天皇、崇峻天皇スシュンテンノウだった。五年前には蘇我馬子とともに物部守屋を倒した泊瀬部皇子を、今度は馬子自身が消そうとしている。東漢直駒は、その命令を実行した。

崇峻天皇スシュンテンノウは殺された。

どの武器が使われ、どのように命を奪われたのか。『日本書紀』はそこまでは語っていない。ただ、臣下の命令によって天皇が殺されたという事実だけが、短い記録の中にはっきり残されている。

そして、その日のうちに崇峻天皇スシュンテンノウは倉梯岡陵へ葬られた。在位は約5年。天皇殺害を命じた蘇我馬子は、その後も朝廷に残った。

二日後、馬子は筑紫に駐屯している将軍たちへ使者を送る。朝廷で内乱が起きたからといって、外の務めを怠ってはならない。天皇が殺された直後にも、政治と軍事は止まることなく動き続けていた。

そして翌月。皇位へ就いたのは、崇峻天皇スシュンテンノウの異母姉・炊屋姫尊だった。第33代推古天皇の時代が始まる。

⇒【国立国会図書館デジタルコレクション】『国史大系 第1巻 日本書紀』巻第二十一(崇峻天皇紀)はこちら

崇峻天皇スシュンテンノウゆかりの神社・祀られている神社

崇峻天皇スシュンテンノウを主祭神として現在まで祀る代表的な神社が、大阪市天王寺区にある堀越神社です。聖徳太子と崇峻天皇スシュンテンノウの叔父・甥の関係が、そのまま神社の創建由緒につながっています。

堀越神社

堀越神社は大阪府大阪市天王寺区茶臼山町に鎮座し、第32代崇峻天皇スシュンテンノウを主祭神として祀っています。

神社の由緒では、推古天皇の時代、聖徳太子が叔父である崇峻天皇スシュンテンノウの徳を偲び、四天王寺を建立した際に四天王寺七宮の一つとして創建したと伝えられています。

古くから大阪では、「堀越さんは一生に一度の願いを聞いてくださる神さん」といわれてきました。現在も、一つの願いを短冊に書いて祈る「ひと夢祈願」が行われています。

また、男性の42歳の厄年には東向きの神社へ参拝すると厄除けになるという信仰も伝わり、現在も多くの人が参拝しています。

⇒ 堀越神社のご利益・属性・見どころを詳しく見る

参考・原典

『日本書紀』巻第二十一では、崇峻天皇スシュンテンノウの即位、物部守屋との戦い、任那をめぐる軍事行動、猪をめぐる発言、蘇我馬子による暗殺まで確認できます。

⇒【国立国会図書館デジタルコレクション】『国史大系 第1巻 日本書紀』巻第二十一はこちら

堀越神社の公式サイトでは、御祭神を第32代崇峻天皇スシュンテンノウとし、聖徳太子が叔父の徳を偲んで創建したという由緒や「一生に一度の願い」「ひと夢祈願」の信仰を確認できます。

⇒【堀越神社公式サイト】御祭神・由緒はこちら

出羽三山神社の公式由緒では、崇峻天皇スシュンテンノウの皇子・蜂子皇子が父の暗殺後に都を離れ、出羽へ向かったという伝承が紹介されています。

⇒【出羽三山神社公式サイト】蜂子皇子と出羽三山の由緒はこちら

崇峻天皇スシュンテンノウと怨霊・天皇霊を結びつける後世の議論については、『呪術と怨霊の天皇史』に「七日七夜荒ぶる天皇霊―崇峻天皇」という章があります。

⇒【CiNii Books】『呪術と怨霊の天皇史』書誌情報はこちら

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