楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代に活躍した武将です。後醍醐天皇の倒幕運動に加わり、赤坂城や千早城で鎌倉幕府軍と戦い、最後は1336年の湊川の戦いで命を落としました。
死後は『太平記』によって知略と武勇に優れた武将として広く知られ、「楠公」「大楠公」と呼ばれて崇敬されるようになります。現在は神戸の湊川神社をはじめ、神社の祭神として祀られています。
この記事では、楠木正成が何をした人物なのか、生涯と最期、なぜ神様として祀られるようになったのか、「悪党」と呼ばれた理由、現在まで伝わる伝説や子孫について紹介します。
楠木正成は何の神様?
楠木正成は、実在した武将が死後に崇敬を集め、神社の祭神として祀られるようになった人物です。現在の湊川神社では、知恵・思いやり・勇気を表す「智・仁・勇」と、誠実に忠義を尽くす「誠忠節義」を備えた人物としてたたえられています。
楠木正成が歴史の表舞台に現れるのは、鎌倉幕府が終わりへ向かっていた14世紀前半です。後醍醐天皇の倒幕運動に加わり、赤坂城や千早城を拠点に幕府軍と戦いました。
鎌倉幕府が滅亡すると、楠木正成は後醍醐天皇の建武政権で河内国司や河内・和泉両国の守護を務め、記録所・恩賞方・雑訴決断所など政治を担う機関にも加わります。
その後、後醍醐天皇と足利尊氏が対立すると再び戦場へ向かい、1336年の湊川の戦いで戦死しました。
楠木正成への崇敬は、死後に語られた『太平記』の物語、江戸時代の墓所参詣や楠公祭、幕末の志士たちによる崇敬を通して広がりました。明治5年(1872年)には楠木正成を主祭神とする湊川神社が創建され、現在まで「楠公さん」と親しまれています。
楠木正成は何をした人?生涯と最期
楠木正成は、後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒に加わり、幕府の大軍を赤坂城や千早城に引きつけて戦った武将です。
幕府滅亡後は建武政権の政治にも参加し、後に足利尊氏と戦って湊川で亡くなりました。
楠木正成の出身地はどこ?
楠木正成の本拠地は、河内国石川郡赤坂、現在の大阪府南河内郡千早赤阪村周辺にありました。
千早赤阪村には現在も「楠公誕生地」と呼ばれる場所があります。この地域には下赤坂城跡、上赤坂城跡、千早城跡など、楠木正成の戦いに関係する史跡も集中しています。
一方、楠木正成が実際にどこで生まれたのか、生年がいつなのかは同時代の史料から確定していません。1294年生まれとする伝承が広く知られています。
後醍醐天皇に味方して鎌倉幕府と戦う
1331年、後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒の動きが本格化すると、楠木正成も天皇側として挙兵しました。
楠木正成は河内国の赤坂城で幕府軍を迎え撃ちます。赤坂城は落城しますが、楠木正成はその場を脱出し、翌年には再び兵を挙げました。
その後、楠木正成は金剛山周辺で幕府軍と戦い、千早城に立てこもります。
千早城は険しい山の地形を利用した城でした。楠木正成は少ない兵で幕府の大軍を引きつけ、長期間にわたって戦い続けます。
その間に赤松則村、足利尊氏、新田義貞らが各地で幕府に反旗を翻し、1333年には六波羅探題と鎌倉幕府が滅亡しました。
千早城の奇策は本当に使われた?
楠木正成といえば、千早城で次々と奇策を使った武将として有名です。
『太平記』には、甲冑を着せた藁人形を城兵に見せかけ、敵が攻め寄せたところへ大石を落とす話や、城壁を登ってくる兵へ熱湯を浴びせる話などが描かれています。
楠木正成が実際に千早城へ籠城し、幕府軍を長期間引きつけたことは歴史上の出来事です。藁人形や熱湯など細かな戦法は『太平記』に描かれた伝説として伝わっています。
こうした物語によって、楠木正成は後世に「大軍を知恵で翻弄した武将」として知られるようになりました。
鎌倉幕府滅亡後は政治にも参加した
鎌倉幕府が滅びると、後醍醐天皇による建武政権が始まります。
楠木正成は河内国司となり、河内・和泉両国の守護も務めました。さらに恩賞方、記録所、雑訴決断所などにも名前が見えます。
恩賞方は戦功に対する恩賞を扱う機関、記録所や雑訴決断所は土地や権利をめぐる問題を処理する機関です。
楠木正成は戦場で戦う武将として活躍しただけでなく、建武政権の中央政治にも関わっていました。
足利尊氏との戦い
建武政権が始まって間もなく、後醍醐天皇と足利尊氏の関係が崩れます。
1336年初め、楠木正成らは京都へ攻め込んだ尊氏軍を破り、足利尊氏を九州へ退かせました。
しかし足利尊氏は九州で軍勢を立て直します。同年5月、再び大軍を率いて東へ進みました。
楠木正成は新田義貞らとともにこれを迎え撃つため、現在の神戸市方面へ向かいます。
湊川の戦いで死亡
1336年5月25日、現在の神戸市周辺で湊川の戦いが起こりました。
楠木正成・新田義貞らの軍は、海と陸から進んできた足利軍と戦います。『太平記』では、楠木正成の部隊が足利直義の軍へ何度も攻撃を加え、一時は足利直義を追い詰めるほど激しく戦ったと描かれています。
やがて楠木正成の軍勢は包囲され、兵の数を大きく減らしました。
楠木正成は弟の楠木正季や一族・家臣たちとともに近くの民家へ退き、そこで最期を迎えます。
この戦没地と墓所が、後に湊川神社へとつながっていきます。
楠木正成の別名・呼び名
楠木正成は、死後に崇敬が広がる中で「楠公」と呼ばれるようになりました。
| 区分 | 名称 |
|---|---|
| 本名 | 楠木正成 |
| 敬称・呼称 | 楠木正成公、楠公、大楠公、楠公さん |
| 史料に見える呼称 | 楠兵衛尉、楠木兵衛尉など |
「大楠公」は、嫡男の楠木正行が「小楠公」と呼ばれることに対して使われる呼び名です。
現在も湊川神社では、楠木正成を「大楠公」「楠公さん」と呼んでいます。
なぜ楠木正成は神様として祀られるようになった?
楠木正成が現在のように神様として広く祀られるまでには、数百年にわたる崇敬の歴史があります。
楠木正成の死後、『太平記』によってその生涯が語り継がれ、江戸時代には墓所参詣や祭祀が盛んになります。幕末には多くの志士から敬われ、明治時代に湊川神社が創建されました。
南木神社に伝わる1337年の創祀
大阪府千早赤阪村の建水分神社には、楠木正成を祀る摂社・南木神社があります。
神社に伝わる由緒では、楠木正成が湊川で亡くなった翌1337年、後醍醐天皇が楠木正成の死を悲しみ、その像を刻ませて建水分神社の境内に祀らせたとされています。
さらに後村上天皇から「南木明神」の神号を与えられたと伝わります。
この伝承から、南木神社は楠木正成を祀る日本最古の神社と案内されています。
『太平記』が楠木正成の人物像を広めた
南北朝の争乱を描いた軍記物語『太平記』は、後世の楠木正成像に大きな影響を与えました。
作中の楠木正成は、赤坂城や千早城で大軍を相手に知略を駆使する武将として描かれています。
一方、湊川へ向かう途中で息子の正行を故郷へ帰す「桜井の別れ」や、弟の正季と交わす最期の言葉など、忠義を貫いて死へ向かう人物としても描かれました。
『太平記』は後世に広く読まれ、楠木正成の名と物語が武士や庶民の間へ広がっていきます。
江戸時代に「楠公」への崇敬が広がる
江戸時代になると、楠木正成を祀る祭りや墓所への参詣が広がります。
1663年には佐賀藩士・深江信渓が楠木正成・楠木正行父子の木像を庵室に祀ったと伝わり、その後、各地でも楠公祭が行われるようになりました。
1692年には水戸藩主だった徳川光圀が、湊川の楠木正成墓所に「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻んだ墓碑を建立します。
墓所は多くの人が訪れる場所となり、さまざまな人物が楠木正成をしのびました。
幕末には志士たちが楠木正成の墓を訪れた
幕末になると、後醍醐天皇に仕えて戦った楠木正成は、天皇を敬う思想と結びついてさらに注目されました。
吉田松陰、坂本龍馬など、幕末に活動した人物たちも湊川の墓所を訪れています。
楠木正成の忠義をたたえる人物像は、幕末の志士たちにも大きな影響を与えました。
明治時代に湊川神社が創建された
明治元年(1868年)、明治天皇から湊川に神社を創建する命が出されました。
そして明治5年(1872年)、楠木正成を主祭神とする湊川神社が創建されます。
明治以降は教育の中でも楠木正成の物語が広く取り上げられました。特に父・正成と子・正行の「桜井の別れ」は、学校教材を通して全国へ知られるようになります。
楠木正成が現在まで神として祀られている背景には、『太平記』で広がった人物像、江戸時代の楠公崇敬、幕末の志士たちによる敬慕、明治時代の湊川神社創建が重なっています。
楠木正成の御神格・ご利益・ご神徳
楠木正成は、実在した武将を祭神として祀る神様です。
湊川神社では「智・仁・勇」の三徳と「誠忠節義」がご盛徳として掲げられ、現在は開運、厄除け、学業、仕事、家族の安全など幅広い願いで参拝されています。
楠木正成の御神格
| 御神格 | 実在した武将を祀る神、忠義・知略・武勇をたたえられる神 |
|---|
楠木正成の神としての姿は、その生涯と後世の崇敬から形づくられました。
幕府軍との戦いで見せた知略、後醍醐天皇に仕えて戦った忠義、湊川まで戦い抜いた武勇が、後世の楠公崇敬につながっています。
楠木正成のご利益
| ご利益 | 開運招福、厄除、家内安全、交通安全、夫婦良縁、情報業・流通業繁栄、学業成就、商売繁盛 |
|---|
湊川神社では、開運招福や厄除、家内安全、交通安全、学業成就、商売繁盛などのご利益が案内されています。
安産祈願、お宮参り、七五三など、家族の人生の節目に関わる祈願も行われています。
楠木正成は「智・仁・勇」を備えた人物として祀られており、仕事や学業を含め、人生の成長や発展を願う人々からも信仰されています。
楠木正成のご神徳
| ご神徳 | 智・仁・勇、誠忠節義 |
|---|
湊川神社では、楠木正成の人物像を「智・仁・勇」と「誠忠節義」の言葉で表しています。
「智」は知恵、「仁」は人を思いやる心、「勇」は行動する勇気です。「誠忠節義」は、真心を持って仕え、自分が正しいと信じる道を貫く姿を表しています。
これらは、楠木正成が歴史上の人物から「楠公」として崇敬されるようになった大きな理由でもあります。
楠木正成の家系図・家族と関係人物
楠木正成の家族では、息子の正行・正時・正儀、弟の正季が歴史や『太平記』に登場します。
一方、楠木正成より前の系譜には後世に作られた家系図も多く、父母や祖先については複数の説があります。
| 関係 | 人物・説明 |
|---|---|
| 父 | 楠木正遠と伝わるが、詳しい出自は不明 |
| 母 | 詳細不明 |
| 妻 | 正行らの母。後世に「久子」と呼ばれる |
| 嫡男 | 楠木正行。南朝方として戦い、四條畷の戦いで死亡 |
| 子 | 楠木正時。正行とともに四條畷の戦いで死亡 |
| 子 | 楠木正儀。南北朝の争乱の中で長く活動 |
| 弟 | 楠木正季。湊川で楠木正成とともに最期を迎えたと伝わる |
| 主君 | 後醍醐天皇 |
| 敵対した人物 | 足利尊氏、足利直義ら |
楠木正行――父の死後も戦った嫡男
楠木正行は、楠木正成の嫡男です。
『太平記』では、湊川へ向かう楠木正成が桜井で正行を呼び寄せ、故郷へ帰るよう命じる場面が描かれています。これが有名な「桜井の別れ」です。
楠木正成の死後、正行は南朝方の武将として戦いました。
1348年の四條畷の戦いでは高師直らの軍と戦い、弟の正時らとともに命を落としています。
楠木正成の妻は「久子」?
楠木正成の妻は、正行たちの母として知られています。
現在、美具久留御魂神社の南木神社では「楠木久子公」の名で祀られています。
一方、楠木正成の妻については生没年や詳しい事績が古い史料から分かっていません。昭和3年(1928年)には楠木正成の妻への贈位が検討されましたが、詳しい経歴を確定できず実現しませんでした。
「久子」は後世に広まった呼び名として現在まで伝わっています。
楠木正成の子孫は現在もいる?
楠木正成の子孫や一族の流れをくむと伝える家は、現在も各地にあります。
楠木正成には正行・正時・正儀らの子が知られており、その後も楠木氏の一族は各地へ広がっていきました。
湊川神社には「楠木同族会」があり、家系図や家伝、家紋などを通して楠木氏とのつながりを受け継ぐ人々が参加しています。現在は約200名の会員が所属しています。
楠木正成は「悪党」だった?
楠木正成は、中世の史料で「悪党楠兵衛尉」と呼ばれています。
中世の「悪党」は、現在使われる「悪人」と同じ意味ではありません。幕府や荘園領主など既存の支配に抵抗し、武力を使って活動する人々に対して使われた言葉です。
楠木正成について重要な記録が残るのが、和泉国若松荘をめぐる史料です。
そこには「悪党楠兵衛尉」が若松荘を押妨したという噂があったことが記されています。「押妨」とは、土地や年貢などを力で押さえる行為です。
この「楠兵衛尉」は楠木正成を指すと考えられています。
当時の楠木正成は、鎌倉幕府側から見れば支配に反抗する武装勢力でした。その立場から「悪党」と呼ばれていました。
後世に「忠臣・楠公」として広く敬われた人物が、歴史の表舞台へ出たころには「悪党」と呼ばれていたことから、時代や立場によって楠木正成の見られ方が変化したことが分かります。
ただし、この史料が記しているのは、「楠兵衛尉が押妨しているという噂があった」という内容です。実際に楠木正成が若松荘の土地や年貢を押さえたかどうかは、現在も分かっていません。
楠木正成の伝説・『太平記』
楠木正成には、歴史資料から分かる生涯とは別に、『太平記』を中心として数多くの物語が伝わっています。
中でも有名なのが、息子・正行との「桜井の別れ」と、弟・正季と迎える湊川での最期です。
桜井の別れから湊川の最期へ
以下は、『太平記』で確認できる出来事をもとに、現代の読み物として意訳・再構成しています。原文の逐語訳ではありません。
五月。楠木正成は兵を率れ、兵庫へ向かっていた。九州から東上してきた足利尊氏の大軍が迫っている。
その途中、桜井の宿で楠木正成は息子の正行と向き合った。正行は父とともに戦うつもりでここまで来ていた。
「私も連れていってください」
楠木正成は息子の顔をじっと見た。これから向かう湊川に、勝って帰れる保証はない。自分自身、そのことをよく分かっていた。
だからこそ、息子をここで死なせるわけにはいかなかった。
「河内へ帰れ」
正行の顔が強ばる。父が死地へ向かう。それを知りながら、自分だけが帰るなど受け入れられない。
「父上と一緒に戦います」
楠木正成は首を横に振った。自分が死んだ後にも戦いは続く。そのとき楠木家を率いる者が必要だった。
今ここで親子そろって死ねば、それで終わる。楠木正成は息子へ、自分の死後も朝廷に仕えて戦うよう言い聞かせた。そして正行を河内へ帰した。
父と子はそこで別れた。
楠木正成は再び馬を進める。背後に残した息子と次に会える日が来ないことを、すでに覚悟していた。
やがて湊川。海からも陸からも、足利軍が押し寄せてくる。
楠木正成たちは敵軍へ突っ込んだ。刀がぶつかり、馬が倒れ、矢が雨のように降る。土煙の中で怒号と悲鳴が重なった。
楠木正成の軍は何度も敵陣へ攻め込んだ。『太平記』では、三時ほどの間に十六度も激しくぶつかり、一度は足利直義を追い詰めたと描かれている。
しかし倒しても、倒しても、新しい敵が現れた。楠木正成の周りから味方が消えていく。
七百騎ほどいた兵は、やがて七十騎ほどになった。血と汗に濡れた兵たちは、それでも戦場から逃げようとはしなかった。
楠木正成たちは近くの民家へ入った。もう戦況をひっくり返す兵力は残っていない。
鎧を脱ぐ者がいる。傷口を押さえる者がいる。座り込んで荒い息を吐く者もいた。
楠木正成のそばには、弟の正季がいた。最後まで一緒に戦ってきた弟だった。
楠木正成は静かに尋ねる。
「最後に、何を願う」
正季は笑った。
「七度人間に生まれ変わっても、また朝敵を滅ぼしたい」
死を前にして、それでも戦うことを願った。楠木正成も同じ願いを口にした。
『太平記』では、その後、兄弟は互いに刺し違えて命を絶ったと描かれている。
湊川で、楠木正成の生涯は終わった。しかし物語の中では、彼の執念まで死んだわけではなかった。
その強すぎる思いは、やがて一人の武将を襲う怨霊となって現れる。
千早城で使ったと伝わる奇策
『太平記』では、楠木正成は千早城でさまざまな策を使います。
特に有名なのが、藁人形に甲冑を着せて城兵に見せかける話です。
幕府軍が人形を本物の兵だと思って殺到したところへ、楠木正成側が城から大石を落としたと描かれています。
ほかにも、大木や石を落とす、城壁を登る兵に熱湯を浴びせるなど、険しい山城を利用した攻撃が登場します。
こうした場面は、後世の「知将・楠木正成」のイメージを大きく形づくりました。
楠木正成は死後、怨霊になった?
『太平記』には、神として崇敬されるようになる後世の姿とは大きく違う楠木正成も登場します。
巻二十三の「大森彦七事」では、湊川の戦いで足利方として戦った大森彦七の前に、楠木正成の怨霊が現れます。
彦七が道を歩いていると、美しい女と出会います。女を背負って歩いていると、その姿が突然変わりました。
女は恐ろしい鬼の姿となり、彦七へ襲いかかります。その正体が、湊川で死んだ楠木正成の怨霊でした。
さらに猿楽が行われている場面でも怪異が起こり、楠木正成の霊が彦七の前へ現れます。
湊川で弟の正季と「生まれ変わっても敵を討つ」と願った楠木正成。その激しい執念が死後も消えず、怨霊となって現れた物語です。
『太平記』の楠木正成は、知略に優れた武将、忠義を貫く人物、息子と別れる父、そして怨霊といういくつもの顔を持っています。
皇居外苑に楠木正成の像があるのはなぜ?
東京の皇居外苑には、馬に乗った楠木正成の大きな銅像があります。
場所は皇居の中ではなく、二重橋に近い皇居外苑です。
この像は、住友家が別子銅山の開坑200周年を記念して企画したものです。別子銅山で産出した銅を使って大型の銅像を制作し、宮内省へ献納しました。
制作は東京美術学校、現在の東京藝術大学へ依頼され、高村光雲が原型制作の中心を務めました。巨大な像だったため制作には長い年月がかかり、1900年に現在の場所へ建てられています。
楠木正成が選ばれた背景には、当時住友を率いていた広瀬宰平の楠公への強い崇敬もありました。
広瀬は明治初年に湊川の楠木正成墓所を訪れており、その後、湊川神社が創建されることを喜ぶ漢詩も残しています。
銅像が表しているのは戦闘中の楠木正成ではありません。
『太平記』を題材に、1333年、隠岐を脱出して京都へ戻る後醍醐天皇を楠木正成が兵庫で迎える場面です。楠木正成が馬を止め、天皇を迎えようとする姿が表現されています。
現在の皇居外苑に楠木正成像があるのは、明治時代に広がっていた楠公崇敬と、別子銅山200周年を記念した住友家の献納事業が重なった結果です。
楠木正成ゆかりの神社・祀られている神社
楠木正成を祀る神社は、最期を迎えた神戸と、本拠地だった大阪・南河内を中心に残っています。
特に湊川神社は楠木正成の墓所と戦没地を持つ信仰の中心です。南河内には、楠木正成の故郷や楠木氏の信仰と結びついた神社があります。
湊川神社
兵庫県神戸市中央区にある湊川神社は、楠木正成を主祭神として祀る代表的な神社です。
境内には、1336年の湊川の戦いで楠木正成が最期を迎えたと伝わる殉節地と、楠木正成の墓所があります。
1692年には徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻んだ墓碑を建立しました。その後、墓所には多くの人が訪れ、幕末には吉田松陰や坂本龍馬らも参詣しています。
明治元年(1868年)に神社創建が決まり、1872年に湊川神社が創建されました。
現在は楠木正成を主祭神とし、嫡男の楠木正行、弟の楠木正季を含む湊川で戦った一族なども祀られています。
建水分神社・南木神社
大阪府南河内郡千早赤阪村にある建水分神社は、楠木氏と深い関係を持つ神社です。
神社の由緒では、1334年に後醍醐天皇の命を受けた楠木正成が社殿を再建したと伝えています。
境内の摂社・南木神社には楠木正成が祀られています。
南木神社の伝承では、楠木正成が湊川で亡くなった翌1337年、後醍醐天皇が楠木正成の像を刻ませ、この地へ祀ったとされています。
さらに後村上天皇から「南木明神」の神号を授けられたと伝わり、現在は楠木正成を祀る日本最古の神社として案内されています。
美具久留御魂神社・南木神社
大阪府富田林市にある美具久留御魂神社も、楠木氏と関係が深い神社です。
境内の南木神社には、楠木正成公、楠木正行公、楠木正儀公、楠木久子公が祀られています。
楠木正成一人だけを祀る神社ではなく、楠木正成の妻や子を含めた楠木一族への信仰が残っています。
南河内で続いてきた楠木氏への崇敬を知ることができる神社です。
