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日野俊基は何の神様?なぜ祀られた?生涯・処刑・辞世の句 | 神様図鑑

日野俊基ヒノトシモトは、鎌倉時代末期に後醍醐天皇ゴダイゴテンノウへ仕え、鎌倉幕府を倒す計画に加わった公家です。1324年の正中の変で一度捕らえられた後に赦免されましたが、1331年の元弘の変で再び捕らえられ、翌1332年に鎌倉の葛原岡で処刑されました。

日野俊基ヒノトシモトが神として祀られたのは、それから約550年後の明治時代です。現在の葛原岡神社では、新しい時代への道を開いた人物として「開運の神様」、学問に優れた人物として「学問の神様」と信仰されています。

この記事では、日野俊基ヒノトシモトがどのような人生を歩み、なぜ処刑され、後世に神として祀られるようになったのかを紹介します。

日野俊基ヒノトシモトは何の神様?なぜ神として祀られている?

日野俊基ヒノトシモトは、神話に登場する神ではなく、鎌倉時代末期に生きた歴史上の人物です。後醍醐天皇ゴダイゴテンノウの近臣となり、鎌倉幕府を倒そうとする動きに加わったことで知られています。

日野俊基ヒノトシモトは1324年の正中の変で幕府に捕らえられ、鎌倉まで送られました。このときは赦免されて京都へ戻りますが、その後も後醍醐天皇ゴダイゴテンノウのもとで活動し、1331年の元弘の変で再び捕らえられました。

二度目は鎌倉から生きて帰ることができず、1332年(元弘2年)6月3日に葛原岡で処刑されます。その翌年の1333年、鎌倉幕府は滅亡しました。

日野俊基ヒノトシモトが祭神となったのは明治時代です。葛原岡神社の由緒では、明治天皇が日野俊基ヒノトシモトの足跡を「明治維新の先駆け」として追慕し、1884年に従三位を追贈したと伝えています。

1887年には、日野俊基ヒノトシモトが命を落とした葛原岡に葛原岡神社が創建され、宮内省からの下賜金によって社殿が造営されました。ここに日野俊基ヒノトシモトが御祭神として祀られ、現在まで祭祀が続いています。

日野俊基ヒノトシモトは、倒幕を目指しながらその実現を見る直前に亡くなった人物です。その生涯が、新しい時代への道を開いた人物という信仰につながっています。

日野俊基ヒノトシモトの御神格・ご利益・ご神徳

日野俊基ヒノトシモトは、現在の葛原岡神社で「開運の神様」「学問の神様」として信仰されています。倒幕を目指して行動した生涯と、学問の力によって後醍醐天皇ゴダイゴテンノウに見いだされた経歴が、現在の信仰につながっています。

日野俊基ヒノトシモトの御神格

御神格 開運の神、学問の神

葛原岡神社では、日野俊基ヒノトシモトを「開運の神様」「学問の神様」としています。

開運の神とされる背景には、日野俊基ヒノトシモトが後醍醐天皇ゴダイゴテンノウの倒幕運動に加わり、その死から約1年後に鎌倉幕府が滅亡した歴史があります。建武の中興への道を開いた人物として信仰されるようになりました。

学問の神という信仰は、日野俊基ヒノトシモトが学問に優れ、その能力を認めた後醍醐天皇ゴダイゴテンノウから抜擢されたことと結びついています。

日野俊基ヒノトシモトのご利益

ご利益 開運、学問

日野俊基ヒノトシモトへの信仰では、開運と学問が中心となっています。

日野俊基ヒノトシモトは1323年に蔵人頭へ進みました。当時の日野俊基ヒノトシモトにとって異例の抜擢で、学問に優れたことから後醍醐天皇ゴダイゴテンノウの信頼を得て政治の中心近くで活動するようになりました。

さらに、鎌倉幕府を倒して新しい政治を実現しようと行動した生涯が、道を開く「開運」の信仰へつながっています。

日野俊基ヒノトシモトのご神徳

ご神徳 開運、学問

葛原岡神社で伝えられている信仰の中心は、開運と学問です。

現在も日野俊基ヒノトシモトの命日にあたる6月3日には、葛原岡神社で神前祭と墓前祭が行われています。12月の第1日曜日には俊基卿祭も行われ、日野俊基ヒノトシモトの生涯と功績が現在まで伝えられています。

日野俊基ヒノトシモトは何をした人?生涯をわかりやすく紹介

日野俊基ヒノトシモトは、鎌倉時代末期の公家です。生年は分かっていません。

父は日野種範で、学問と深く関わる日野氏の家に生まれました。日野俊基ヒノトシモト自身も学問に優れ、後醍醐天皇ゴダイゴテンノウの信頼を得て近臣となります。

その後の人生は、後醍醐天皇ゴダイゴテンノウによる鎌倉幕府打倒の動きと深く結びついていきました。

学問に優れ、後醍醐天皇ゴダイゴテンノウに抜擢される

日野俊基ヒノトシモトは1318年に即位した後醍醐天皇ゴダイゴテンノウに仕え、蔵人となりました。

1323年には蔵人頭へ進みます。蔵人頭は天皇の近くで重要な政務に携わる役職で、日野俊基ヒノトシモトは後醍醐天皇ゴダイゴテンノウの近臣として存在感を強めていきました。

やがて日野資朝らとともに、鎌倉幕府を倒そうとする動きへ加わります。

正中の変で一度目の逮捕

1324年、後醍醐天皇ゴダイゴテンノウ周辺の倒幕計画が発覚したとされる正中の変が起こります。

日野俊基ヒノトシモトと日野資朝も捕らえられ、鎌倉へ送られました。日野俊基ヒノトシモトにとって、これが最初の鎌倉への護送です。

このとき日野俊基ヒノトシモトは事件の中心人物とは認定されず、赦免されて京都へ戻りました。一方の日野資朝は佐渡へ流されています。

日野俊基ヒノトシモトは死罪を免れ、再び後醍醐天皇ゴダイゴテンノウの近くで活動することになります。

元弘の変で再び捕らえられる

後醍醐天皇ゴダイゴテンノウはその後も鎌倉幕府を倒すための動きを進めました。

1331年、その計画が幕府側へ伝わり、日野俊基ヒノトシモトは再び六波羅探題に捕らえられます。後醍醐天皇ゴダイゴテンノウも京都を脱出して笠置山で挙兵しましたが、幕府軍に敗れ、のちに隠岐へ流されました。

日野俊基ヒノトシモトは再び鎌倉へ送られます。一度目の正中の変では京都へ戻ることができましたが、二度目の鎌倉行きは処刑へとつながりました。

日野俊基ヒノトシモトはなぜ処刑された?

日野俊基ヒノトシモトは、後醍醐天皇ゴダイゴテンノウによる倒幕計画へ再び加わったことで処刑されました。

『太平記』では、日野俊基ヒノトシモトを「謀叛の張本」として扱い、遠国へ流すのではなく鎌倉で斬ることになったと描いています。

1332年(元弘2年)6月3日、日野俊基ヒノトシモトは鎌倉の葛原岡で斬首されました。

翌1333年には後醍醐天皇ゴダイゴテンノウが隠岐を脱出し、足利高氏や新田義貞らが幕府に反旗を翻します。新田義貞による鎌倉攻めによって鎌倉幕府は滅亡しました。

日野俊基ヒノトシモトが命を落としたのは、鎌倉幕府滅亡のおよそ1年前でした。

日野俊基ヒノトシモトの家系図・家族

日野俊基ヒノトシモトは日野氏の一族で、父の日野種範も学問に携わった人物です。

日野俊基ヒノトシモトには妻子がいました。『太平記』では妻を「北の方」と記しており、日野俊基ヒノトシモトが鎌倉へ送られた後の夫婦のやり取りも詳しく描かれています。

関係 人物・内容
父 日野種範
妻 氏名不詳。『太平記』では「北の方」として登場
子 日野俊業、日野俊孝

『太平記』では、日野俊基ヒノトシモトが捕らえられた後、妻は嵯峨の奥で暮らしていたと描かれています。

夫が鎌倉へ送られたことを知った妻は、日野俊基ヒノトシモトに長く仕えていた後藤助光へ手紙を託しました。助光はその手紙を持って鎌倉へ向かい、日野俊基ヒノトシモトが処刑される直前に届けます。

日野俊基ヒノトシモトの死後、妻は出家して夫の菩提を弔ったと『太平記』は伝えています。

日野俊基ヒノトシモトに娘はいた?『吉野拾遺』に登場する弁内侍

日野俊基ヒノトシモトの娘として伝えられる女性に、弁内侍があります。

室町時代に成立した説話集『吉野拾遺』では、弁内侍を日野俊基ヒノトシモトの娘として描いています。弁内侍は南朝に仕える女性として登場し、楠木正行に助けられたという物語でも知られています。

系譜で確認できる日野俊基ヒノトシモトの子には日野俊業と日野俊孝がいます。弁内侍は、『吉野拾遺』で日野俊基ヒノトシモトの娘と伝えられる人物です。

『太平記』に描かれた日野俊基ヒノトシモト

日野俊基ヒノトシモトの最期を詳しく伝えている代表的な作品が、軍記物語『太平記』です。

巻二には「俊基朝臣再関東下向事」と「俊基被誅事並助光事」があり、日野俊基ヒノトシモトが二度目に鎌倉へ送られる旅から処刑までが詳しく描かれています。

ここで描かれる日野俊基ヒノトシモトは、政治事件の登場人物だけではありません。京都に妻子を残して東海道を進み、鎌倉では死を待ちながら法華経を読み続けます。

処刑の日には、妻からの手紙を携えて鎌倉へ来た後藤助光と最後の対面を果たします。辞世や処刑後の後藤助光の行動まで描かれており、日野俊基ヒノトシモトの最期を知るうえで中心となる物語です。

大河ドラマ『太平記』にも登場

1991年のNHK大河ドラマ『太平記』にも日野俊基ヒノトシモトが登場します。

日野俊基ヒノトシモトを演じたのは榎木孝明です。鎌倉幕府末期から南北朝時代を扱う作品で、後醍醐天皇ゴダイゴテンノウの倒幕に関わる人物として描かれています。

日野俊基ヒノトシモトは『鎌倉殿の13人』に登場する?

日野俊基ヒノトシモトが生きた時代は、『鎌倉殿の13人』で描かれる時代より約100年後です。

『鎌倉殿の13人』は、源頼朝や北条義時らが活躍し、鎌倉幕府が成立していく時代を中心に描いています。日野俊基ヒノトシモトが活動したのは、その鎌倉幕府が終わりを迎える14世紀前半でした。

日野俊基ヒノトシモトと直接結びつく大河ドラマは、鎌倉幕府滅亡と南北朝時代を描いた『太平記』です。

日野俊基ヒノトシモトと『逃げ上手の若君』の関係

『逃げ上手の若君』は、1333年の鎌倉幕府滅亡から北条時行の物語が動き始めます。

日野俊基ヒノトシモトが葛原岡で処刑されたのは、その前年の1332年です。北条時行と同じ鎌倉時代末期に生きた人物ですが、作品の中心となる鎌倉幕府滅亡より少し前に亡くなっています。

日野俊基ヒノトシモトが参加した後醍醐天皇ゴダイゴテンノウの倒幕運動はその後も続き、1333年に鎌倉幕府が滅亡しました。その幕府滅亡によって北条氏の立場が大きく変わり、北条時行が生きる時代へつながっていきます。

日野俊基ヒノトシモトの辞世の句

日野俊基ヒノトシモトの辞世として『太平記』に記されているのが、処刑直前に書いた四句です。

古来一句
無死無生
万里雲尽
長江水清

『太平記』では、日野俊基ヒノトシモトが処刑を促されると紙を取り出し、この辞世を書いたと描いています。

生と死への執着を離れ、雲が尽きた空や澄んだ大河のような心境を表した言葉として伝えられています。

日野俊基ヒノトシモトは辞世を書き終えると筆を置き、髪を整えました。その直後に処刑されます。

「秋を待たで葛原岡に消ゆる身の」は日野俊基ヒノトシモトの辞世?

日野俊基ヒノトシモトにまつわる歌として、もう一つ知られているものがあります。

秋を待たで
葛原岡に消ゆる身の
露のうらみや
世に残るらん

この歌は『神明鏡』に確認できます。

現在は日野俊基ヒノトシモトの辞世として紹介されることがありますが、『神明鏡』の文章からは誰が詠んだ歌なのかをはっきり特定できません。

日野俊基ヒノトシモト本人の辞世として『太平記』に明記されているのは、「古来一句、無死無生」から始まる四句です。

日野俊基ヒノトシモトの伝承

『太平記』には、日野俊基ヒノトシモトが二度目に鎌倉へ送られてから処刑されるまでが詳しく描かれています。

京都に妻子を残して死地へ向かう日野俊基ヒノトシモトと、妻の手紙を届けるため鎌倉へ駆けつけた後藤助光。日野俊基ヒノトシモトの最期を伝える物語です。

二度目の鎌倉下向――妻子を残し、死地へ向かう日野俊基ヒノトシモト

以下は、原典で確認できる出来事をもとに、現代の読み物として意訳・再構成しています。原文の逐語訳ではありません。

京を離れる道の先に、鎌倉があった。

日野俊基ヒノトシモトにとって初めての道ではない。八年前にも捕らえられ、同じように鎌倉へ送られた。あのときは許され、生きて都へ帰ることができた。

だが、今度も同じ結末になるとは思えなかった。再び倒幕計画に関わった者として捕らえられた以上、道中で命を落とすか、鎌倉で斬られるか。日野俊基ヒノトシモトは死を覚悟して京を出た。

都が少しずつ遠ざかっていく。そこには長く暮らした場所があり、妻がいて、子がいる。振り返っても、もう戻ることはできない。

東海道を進み、日野俊基ヒノトシモトは鎌倉へ向かった。旅の先に待っているものを考えながら、それでも足を止めることはできなかった。

やがて鎌倉へ着く。待っていたのは自由ではなかった。

『太平記』では、日野俊基ヒノトシモトを倒幕計画の中心人物として、遠国へ流すまでもなく鎌倉で斬ることになったと記している。

日野俊基ヒノトシモトには、一つだけやり残したことがあった。長年、法華経六百部を自ら読むことを願っていたが、まだ二百部が残っていた。

「すべて読み終えるまで、命を待っていただきたい」

願いは認められた。助かったわけではない。死ぬ日が、法華経を読み終えるまで少し延びただけだった。

そのころ京都では、日野俊基ヒノトシモトの妻が嵯峨の奥で暮らしていた。夫が鎌倉へ送られたと知り、悲しみに沈んでいた。

日野俊基ヒノトシモトに長く仕えてきた後藤助光は、その姿を見て鎌倉へ向かうことを決めた。妻から日野俊基ヒノトシモトへの手紙を預かり、主人がまだ生きていることを願いながら東へ急いだ。

「今日か、明日にも斬られるらしい」

そんな話を聞くたび、助光の胸は締めつけられた。鎌倉へ着いたあとも、すぐには日野俊基ヒノトシモトに会えない。

やがて、京都から送られてきた罪人が今日処刑されるという話が助光の耳に入った。日野俊基ヒノトシモトはすでに輿へ乗せられ、化粧坂を通って葛原岡へ向かっていた。

助光はその後を追った。

葛原岡には大きな幕が張られ、その内側に日野俊基ヒノトシモトが座っていた。ここで主人が斬られるのだと分かった助光は、処刑を担当する者に必死で頼み込んだ。

自分は日野俊基ヒノトシモトに仕えていた者であること。京都に残された妻から手紙を預かっていること。せめて最期に、それだけでも渡したいこと。

その願いが聞き入れられ、助光は日野俊基ヒノトシモトの前へ通された。

二人は顔を合わせた。

「いかにや」

日野俊基ヒノトシモトが口にすると、言葉はそこで途切れた。助光も涙で顔を上げることができない。

「北の方からのお手紙です」

助光が差し出した手紙を、日野俊基ヒノトシモトは受け取った。

都に残した妻の文字がそこにあった。死を覚悟して鎌倉まで来た日野俊基ヒノトシモトの目から、涙がこぼれた。

読み終えた日野俊基ヒノトシモトは、小刀で鬢の髪を少し切った。妻への返事とともに、それを形見として助光へ託す。

やがて幕の内へ声がかかった。もう時間だった。

日野俊基ヒノトシモトは紙を取り出し、首のまわりを拭った。その紙を広げ、最後の言葉を書く。

「古来一句。無死無生。万里雲尽。長江水清」

筆を置き、髪を整える。

背後で太刀が光った。刃が振り下ろされ、首が前へ落ちる。『太平記』は、日野俊基ヒノトシモトが斬り落とされた自らの首を抱えるようにして伏したと描いている。

助光は主人の死を目の前で見届けた。泣きながら亡骸を葬り、遺骨を携える。日野俊基ヒノトシモトが妻へ残した手紙と遺髪も、すべて自分が京都へ届けなければならない。

助光が都へ戻ると、妻は夫の帰りを待っていた。しかし、戻ってきたのは日野俊基ヒノトシモト本人ではなかった。夫の遺骨と遺髪、最後の手紙だった。

妻は深い悲しみに沈んだ。その後、尼となって日野俊基ヒノトシモトの菩提を弔ったと伝えられる。助光もまた出家し、高野山へ入って主人の供養を続けたという。

日野俊基ヒノトシモトが葛原岡で命を落とした翌年、鎌倉幕府は滅亡した。

日野俊基ヒノトシモトが生きて見ることのできなかった時代が、その死のあとに始まった。

⇒【Wikisource】『太平記』巻第二「俊基朝臣再関東下向事」「俊基被誅事並助光事」はこちら

日野俊基ヒノトシモトの墓

日野俊基ヒノトシモトの墓は、神奈川県鎌倉市梶原の葛原岡にあります。

「日野俊基墓」として1927年4月8日に国の史跡へ指定されました。墓は高さ約五尺の宝篋印塔で、日野俊基ヒノトシモトが処刑された葛原岡に残されています。

近くには日野俊基ヒノトシモトを御祭神とする葛原岡神社があり、境内周辺には俊基卿終焉の地を伝える碑もあります。

毎年6月3日の葛原岡神社例大祭では、神前祭とともに墓前祭も行われています。日野俊基ヒノトシモトの墓は、鎌倉時代末期の史跡であると同時に、現在の祭祀ともつながる場所です。

⇒【国指定文化財等データベース】日野俊基墓はこちら

日野俊基ヒノトシモトゆかりの神社・祀られている神社

日野俊基ヒノトシモトを御祭神として祀る中心的な神社が、神奈川県鎌倉市の葛原岡神社です。

日野俊基ヒノトシモトが実際に命を落とした葛原岡に建てられており、墓もすぐ近くにあります。歴史人物だった日野俊基ヒノトシモトが、現在どのように神として信仰されているのかを伝える神社です。

葛原岡神社

葛原岡神社は、神奈川県鎌倉市梶原に鎮座し、日野俊基ヒノトシモトを御祭神として祀っています。

1884年に日野俊基ヒノトシモトへ従三位が追贈され、その3年後の1887年、最期の地である葛原岡に神社が創建されました。社殿は宮内省からの下賜金によって造営されています。

日野俊基ヒノトシモトが建武の中興への道を開いた人物とされることから「開運の神様」、学問に優れた人物だったことから「学問の神様」として信仰されています。

境内には俊基卿終焉の地を伝える碑があり、近くには国史跡の日野俊基墓があります。命日にあたる6月3日には神前祭・墓前祭、12月の第1日曜日には俊基卿祭が行われています。

⇒ 葛原岡神社のご利益・属性・見どころを詳しく見る

参考・原典

『太平記』巻第二には、日野俊基ヒノトシモトが二度目に鎌倉へ送られる「俊基朝臣再関東下向事」と、処刑直前の後藤助光との対面や辞世、処刑後の出来事を描く「俊基被誅事並助光事」が収められています。

⇒【Wikisource】『太平記』巻第二はこちら

神として祀られた経緯や現在の信仰については、葛原岡神社の御由緒で確認できます。

⇒【葛原岡神社】御由緒はこちら

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