大吉備津彦命は、古代の吉備地方を平定したと伝わる皇子で、岡山の桃太郎伝説のモデルとしても知られる神様です。
鬼と恐れられた温羅との戦いや、現在も続く鳴釜神事など、岡山には大吉備津彦命にまつわる数多くの伝承が残っています。
この記事では、大吉備津彦命のご利益や家系図、『古事記』『日本書紀』での活躍、桃太郎伝説の背景、ゆかりの神社まで詳しく紹介します。
大吉備津彦命は何の神様?
大吉備津彦命は、第7代・孝霊天皇の皇子で、吉備地方を平定した英雄として祀られる神様です。現在の岡山県を中心とする吉備地方の守護神として、古くから信仰されてきました。
『古事記』では、異母弟の若日子建吉備津日子命と協力して吉備を平定した人物として登場します。また、『日本書紀』では、崇神天皇の命を受けて各地へ派遣された四道将軍の一人に数えられています。
岡山には、温羅と呼ばれる鬼を退治した伝承も残っています。温羅は百済から渡来した王子と伝わり、山上に城を築いて人々を苦しめていました。大吉備津彦命は朝廷から派遣され、激しい戦いの末に温羅を討ち取ったといわれています。
この温羅退治は、昔話『桃太郎』の原型になったとする説でも知られています。
また、吉備津神社の由緒には、平定後も吉備にとどまり、人々に産業を教えながら国を治めたことが伝えられています。そのため、武勇の神であるとともに、農業や産業を守る神としても信仰されています。
大吉備津彦命の別名・読み方
大吉備津彦命の読み方は「おおきびつひこのみこと」です。『古事記』では大吉備津日子命、『日本書紀』では吉備津彦命という名前でも登場します。
| 区分 | 別名・異表記 |
|---|---|
| 『古事記』 | 大吉備津日子命、 比古伊佐勢理毘古命 |
| 『日本書紀』 | 吉備津彦命、 彦五十狭芹彦命 |
| 神社での呼称 | 五十狭芹彦命、 大吉備津彦大神 |
『古事記』では比古伊佐勢理毘古命という名前で登場し、別名として大吉備津日子命が記されています。
なお、吉備津彦という呼び名は、吉備平定に同行した異母弟にも使われています。吉備津彦神社では、主祭神を大吉備津日子命、相殿に祀る異母弟を吉備津彦命と表記しています。
大吉備津彦命の御神格・ご利益・ご神徳
大吉備津彦命は、吉備を守った武勇や、人々の暮らしを支えた功績から、厄除け・災難除け・武運長久・五穀豊穣などの神様として信仰されています。
また、281歳まで生きたという伝承も残り、健康や長寿を願う人々からも崇敬されています。
大吉備津彦命の御神格
| 御神格 | 吉備の守護神、国土平定の神、武道の神、産業の守護神 |
|---|
大吉備津彦命は、大和朝廷の命を受けて地方の平定に携わったことから、武勇の神として信仰されています。
吉備津彦神社では、現在も秋季例大祭で流鏑馬神事が行われています。また、同社には1666年に奉納された「桃太郎祐定」と呼ばれる大太刀が伝わっており、岡山の刀剣文化とも深い関わりがあります。
一方、吉備津神社では、吉備国の総鎮守として長く崇敬されてきました。吉備を治め、人々に産業を教えたという社伝から、農業や産業の発展を守る神としても信仰されています。
大吉備津彦命のご利益・ご神徳
| ご利益・ご神徳 | 厄除け、災難除け、五穀豊穣、武運長久、慈愛、延命長寿、農業・産業の繁栄 |
|---|
厄除けや災難除けは、人々を苦しめていた温羅を退治したという伝承と結びついています。
吉備津神社では、毎年1月3日に矢立の神事が行われています。東西南北の四方へ矢を放ち、災いを払い、国の安泰や人々の幸福を願う神事です。大吉備津彦命による温羅退治の伝承も、この神事に重ねられています。
武運長久は、四道将軍として地方平定に携わった武勇に由来する信仰です。
農業や産業に関するご神徳は、現在も神社の祭礼に受け継がれています。吉備津彦神社の御田植祭では、五穀豊穣や農作物の病害虫除けを祈願します。8月2日の御斗代神事と翌3日の御幡献納祭からなる神事で、鎌倉時代から続くと伝えられています。
御幡献納祭では、白い布で作られた御幡を神前へ奉納します。この御幡は、温羅退治から凱旋した際の船の帆柱や、稲作文化が伝わったときの船の帆柱を表しているともいわれています。
また、吉備津神社の七十五膳据神事では、米や魚、野菜などを盛った多くの膳が神前へ供えられ、豊かな恵みへの感謝が捧げられています。
延命長寿については、吉備津神社に281歳まで生きたという伝承が残っています。その長寿にあやかり、健康や長生きを願う人々からも信仰を集めています。
大吉備津彦命の家系図・関係する神々
大吉備津彦命は、第7代・孝霊天皇と倭国香媛の間に生まれた皇子です。
姉には倭迹迹日百襲姫命、兄には日子刺肩別命がいます。また、第8代・孝元天皇も父を同じくする兄弟です。
| 関係 | 神名・人物 |
|---|---|
| 父 | 孝霊天皇 |
| 母 | 倭国香媛 |
| 同母姉 | 倭迹迹日百襲姫命 |
| 同母兄 | 日子刺肩別命 |
| 同母妹 | 倭飛羽矢若屋比売 |
| 異母兄弟 | 孝元天皇、 若日子建吉備津日子命 |
| 妻(地域伝承) | 吉備大井姫命、 高田姫 |
| 子 | 『古事記』『日本書紀』の該当する系譜に具体名の記載なし |
妻については、吉備地方に複数の伝承が残っています。
岡山市の大井神社には、吉備大井姫命を大吉備津彦命の妃とする伝承があり、その父である百田大兄命が祀られています。吉備大井姫命は、百田弓矢比売命とも呼ばれています。
また、岡山市北区の吉川に伝わる楽々森彦の伝承では、その長女・高田姫が大吉備津彦命に見初められ、妃になったとされています。高田姫は、現在の鼓神社にも祀られています。
さらに『古事記』では、大吉備津彦命を吉備上道臣の祖、異母弟の若日子建吉備津日子命を吉備下道臣・笠臣の祖としています。それぞれの子孫が、吉備地方の有力氏族につながったと伝えられています。
大吉備津彦命とスサノオの関係は?
大吉備津彦命と素戔嗚尊は、ともに武勇や怪物退治にまつわる伝承を持つ神様ですが、古典神話では別々の系譜に登場します。
素戔嗚尊は伊邪那岐命から生まれた神で、八俣大蛇を退治したことで知られています。一方、大吉備津彦命は孝霊天皇の皇子で、吉備平定や温羅退治の伝承が残っています。
『古事記』『日本書紀』には、両者を親子・兄弟・同一神とする記述はありません。
なお、大吉備津彦命自身には出雲との関わりがあります。『日本書紀』の崇神天皇60年には、武渟川別とともに出雲へ派遣され、出雲振根を討ったことが記されています。
大吉備津彦命の時代・西暦は?
大吉備津彦命は、第10代・崇神天皇の時代に活躍したと伝えられています。
『日本書紀』には四道将軍として地方の平定へ向かった記録があり、吉備津彦神社の社伝には、崇神天皇60年に亡くなったことも伝えられています。
四道将軍として活躍した時代
『日本書紀』によると、崇神天皇10年に4人の将軍がそれぞれ異なる地方へ派遣されました。
| 将軍 | 派遣先 |
|---|---|
| 大彦命 | 北陸 |
| 武渟川別 | 東海 |
| 吉備津彦命 | 西道 |
| 丹波道主命 | 丹波 |
崇神天皇は4人に将軍の証となる印綬を授け、朝廷に従わない地域を平定するよう命じました。翌11年には、将軍たちが各地の平定を終え、その結果を朝廷へ報告したと記されています。
『日本書紀』の伝統的な紀年を西暦に換算すると、崇神天皇10年は紀元前88年に当たります。ただし、これは『日本書紀』の紀年を換算した数字であり、大吉備津彦命の実際の活動年代や生没年は確定していません。
大吉備津彦命の墓と晩年
吉備津神社には、大吉備津彦命が吉備の中山の麓に茅葺きの宮を建て、281歳まで生きたという伝承が残っています。
また、大吉備津彦命の墓とされているのが、岡山市の吉備中山にある「中山茶臼山古墳」です。
4世紀頃に築かれたと考えられている全長約105メートルの前方後円墳で、前方部が比較的短い形をしています。周辺からは特殊器台形埴輪も出土しています。
現在は宮内庁によって大吉備津彦命の墓に治定され、管理されています。
大吉備津彦命の神話・伝承
大吉備津彦命については、『古事記』『日本書紀』に皇子としての活動が記されているほか、岡山には鬼・温羅との戦いが伝わっています。
温羅退治には、矢を使った激しい戦い、姿を変えて逃げる鬼、討ち取られた後も鳴り続ける首など、数多くの不思議な出来事が登場します。
『古事記』に記された吉備平定
『古事記』では、大吉備津彦命と異母弟の若日子建吉備津日子命が協力して吉備国を平定したと記されています。
二人は、播磨の氷河の前に「忌瓮(イワイベ)」と呼ばれる神聖な器を据え、神を祀りました。そして、播磨を吉備へ向かう入口として、吉備国の平定を進めたと伝えられています。
また、大吉備津彦命は吉備上道臣、若日子建吉備津日子命は吉備下道臣と笠臣の祖とされています。
ここでは兄弟による吉備平定と、その子孫につながる氏族が記されています。現在よく知られる温羅との戦いは、岡山に伝わる地域の物語として受け継がれてきました。
『日本書紀』に記された出雲の事件
『日本書紀』には、大吉備津彦命が出雲の事件を解決するために派遣された記録も残っています。
崇神天皇60年、朝廷は出雲で管理されていた神宝を献上するよう求めました。ところが、神宝を管理していた出雲振根が留守の間に、弟の飯入根が朝廷へ献上してしまいます。
帰ってきた出雲振根は、相談もなく神宝を渡した弟に激怒しました。やがて兄弟を水浴びに誘い出すと、弟が持つ真剣と自分の木刀をすり替え、飯入根を殺害します。
事件が朝廷に伝わると、崇神天皇は吉備津彦命と武渟川別を出雲へ派遣しました。二人は命令に従って出雲振根を討ち、事件を収めたと記されています。
温羅退治|吉備の国に現れた鬼との戦い
岡山の吉備津神社には、大吉備津彦命が温羅という鬼を退治した伝承が残っています。吉備の中山や鬼ノ城を舞台とするこの物語は、現在も神社の祭礼や地域の名所に受け継がれています。
以下は、吉備津神社に伝わる出来事をもとに、現代の読み物として意訳・再構成しています。原文の逐語訳ではありません。
【物語】吉備を襲った鬼・温羅
吉備の国、阿曽の里。
瀬戸内の海風が吹き抜けるこの土地で、人々は穏やかに暮らしていた。田畑を耕し、海を行き交う船を眺める。そんな平和な日々は、海の向こうから現れた一人の男によって破られることになる。
男の名は温羅。百済の王子と伝わる、身の丈四メートルほどもある大男だった。ぼうぼうと伸びた髪と髭、虎や狼のように光る鋭い目。温羅は足守川の西にある新山に城を築くと、近くの岩屋に住み着いた。
やがて温羅は、周囲の村々を襲い始めた。城の下を通る船を見つければ積み荷を奪い、女や子供をさらっては城へ閉じ込める。逆らう者は大きな釜で煮殺すという、残虐な振る舞いを繰り返した。
里の人々は温羅を鬼と呼び、山上の城を鬼ノ城と呼んで恐れた。
もはや自分たちの力では、どうすることもできない。人々の訴えは、ついに大和朝廷へ届いた。
朝廷から派遣されたのは、孝霊天皇の皇子・大吉備津彦命だった。
武勇に優れた皇子は、兵を率いて吉備へ入った。吉備の中山に陣を構えると、その西側に巨石の楯を築き、温羅との戦いに備えた。
山の向こうには温羅の城がそびえている。
大吉備津彦命は矢を手に取り、弓を引き絞った。狙う先はただ一つ。人々を苦しめ続けてきた温羅だ。
びゅうっ!
放たれた矢が風を切って飛んでいく。しかし、温羅もすかさず矢を放った。
二本の矢は空中で激しくぶつかり合い、地面へ落ちた。大吉備津彦命の矢は、温羅へ届かなかった。
もう一度、弓を構える。再び矢が飛び交い、激しい音を立てて衝突する。何度放っても、結果は同じだった。
互いの矢は空中で打ち消し合い、戦いは決着のつかないまま続いた。
大吉備津彦命は、矢筒へ手を伸ばした。だが、今度は一本ではない。
二本の矢を同時につがえ、弓を大きく引き絞る。
温羅はそれまでと同じように、一本の矢を放った。大吉備津彦命の矢が一本、温羅の矢と激突する。
その瞬間、もう一本の矢が温羅へ迫った。
「ぐあああっ!」
矢は温羅の左目を貫いた。
温羅は顔を押さえ、苦痛に身をよじった。指の隙間から大量の血があふれ、山肌を伝って流れ落ちていく。真っ赤な血はやがて一本の川となり、下流の浜まで赤く染め上げた。
後に血吸川と呼ばれる川の始まりだった。
片目を射抜かれた温羅は、ついに逃げ出した。
その大きな体が突然縮み、羽毛に覆われていく。次の瞬間、温羅は一羽の雉となり、山の中へ飛び去った。
「待て!」
大吉備津彦命も鷹へ姿を変え、大きな翼を広げて追いかける。
温羅は木々の間を抜け、必死に逃げ続けた。しかし、鷹の鋭い目はその姿を捉えて離さない。どれほど羽ばたいても、背後から迫る気配が消えなかった。
このままでは追いつかれる。
温羅はさらに姿を変え、今度は鯉となって血吸川へ飛び込んだ。水の中なら、空を飛ぶ鷹から逃れられるはずだった。
しかし、大吉備津彦命もすぐさま鵜に変身した。
水面へ急降下すると、そのまま川へ飛び込む。水中で身を翻し、逃げる鯉へ一気に迫った。
温羅は懸命に尾を動かした。川底へ潜り、何とか逃れようとする。だが、背後から迫った鵜の鋭いくちばしが、その体を捕らえた。
どれほど暴れても、逃げられない。
ついに温羅は捕らえられ、大吉備津彦命によって首をはねられた。
吉備の人々を苦しめ続けた鬼は、こうして討ち取られたのである。
しかし、恐ろしい出来事はそこで終わらなかった。
さらされた温羅の首が、何年経っても唸り声を上げ続けたのだ。
「うおおお……うおおお……」
日が暮れても、夜が明けても、声は響き続けた。体を失い、首だけになっても、温羅は叫ぶのをやめなかった。近くの村々では、人々が死んだはずの鬼に怯えていた。
大吉備津彦命は家来の犬飼健に命じ、犬にその首を食わせようとした。
しかし、それでも不気味な声は消えなかった。
ついに温羅の首は、御竈殿の釜の下深くへ埋められた。地中に封じ込めれば、今度こそ静かになるはずだった。
だが、地面の下からは、相変わらず唸り声が響いてきた。
そんなある夜のこと。眠っていた大吉備津彦命の夢に、温羅が現れた。
かつて矢を交わし、激しく争った相手。しかし、夢の中の温羅は襲いかかることもなく、静かに口を開いた。
「私の妻、阿曽媛に御竈殿の火を炊かせてほしい」
温羅は、釜の鳴る音によって世の中の吉凶を知らせると告げた。
幸せが訪れるときには豊かに鳴り、災いが迫るときには荒々しく鳴る。そして、大吉備津彦命の使いとなって、人々の未来を知らせるという。
目が覚めた大吉備津彦命は、温羅のお告げに従った。
阿曽媛が釜の火を炊くようになると、長年続いていた鬼の唸り声は、ようやく静まった。
それ以来、御竈殿には不思議な釜の音が響くようになった。
かつて人々を恐れさせた温羅の声は、これから訪れる幸運や災いを知らせる音となったのである。
吉備の里には平和が戻り、大吉備津彦命は中山の麓に茅葺きの宮を建てて暮らした。そして281歳の長寿を全うしたと伝わっている。
かつての宿敵・温羅もまた、艮御崎に封じられ、後世までその名を残すこととなった。
温羅の首と鳴釜神事
温羅退治の伝承は、現在の吉備津神社で行われる「鳴釜神事」に受け継がれています。
鳴釜神事は、御竈殿で釜の鳴る音によって、願い事の吉凶を占う神事です。
神事では、阿曽女と呼ばれる女性が神官と釜を挟んで向かい合い、祝詞が奏上される間に、蒸し器の中で玄米を振ります。すると釜から鬼の唸り声のような独特の音が響きます。
その音の大きさや長さによって吉凶を占いますが、神官や阿曽女が結果を告げるのではなく、参拝者自身が音を聞いて判断します。
鳴釜神事の歴史は古く、1568年の『多聞院日記』には、備中吉備津宮で釜を鳴らして願い事を占う行事があったと記されています。
また、江戸時代の作家・上田秋成の『雨月物語』にも、鳴釜を題材とした怪異小説「吉備津の釜」が収録されています。
御竈殿のある阿曽郷は、古くから鋳物づくりが盛んな土地でもありました。釜の製作や交換には、阿曽郷の鋳物師が携わってきたと伝えられています。
温羅はなぜ神様として祀られている?
温羅は、鬼として退治された一方で、吉備地方に文化をもたらした人物としても伝えられています。
吉備津彦神社では、温羅が製鉄文化をもたらしたと伝えられています。また、敗れた温羅が「吉備冠者」という名前を大吉備津彦命へ献上したという話も残っています。
温羅退治には、別の結末を持つ伝承もあります。吉備津彦神社に伝わる話では、敗れた温羅は大吉備津彦命に降伏して家来となり、吉備の国を治めることに協力したとされています。
現在、吉備津神社では艮御崎宮に温羅が祀られています。また、吉備津彦神社にも温羅神社があり、温羅の和魂(ニギミタマ)と呼ばれる穏やかな御魂が祀られています。
鬼として恐れられた温羅は、吉備に文化をもたらした存在としても語り継がれ、現在も神として信仰されています。
桃太郎伝説に残る温羅退治の舞台
岡山には、温羅退治の舞台とされる場所が数多く残されています。これらに関係する文化財は、2018年に日本遺産「『桃太郎伝説』の生まれたまち おかやま」の構成文化財として認定されました。
| 場所 | 伝承との関係 |
|---|---|
| 鬼ノ城 | 温羅が住んでいたと伝わる山城 |
| 吉備の中山 | 大吉備津彦命が陣を構えた場所 |
| 矢喰宮 | 戦いの際に放たれた矢が空中でぶつかり、落ちたと伝わる場所。温羅が投げた岩と矢が衝突したという伝承も残る |
| 血吸川 | 温羅の左目から流れた血が川になったという伝承 |
| 鯉喰神社 | 鯉に化けた温羅を、鵜に変身した大吉備津彦命が捕らえた場所 |
また、温羅退治の話は、古い文献にも残されています。
1583年に成立した『吉備津宮勧進帳』には、吉備津彦命による鬼退治が記されています。成立した年代が明らかな資料としては、この鬼退治を伝える最古の文献とされています。
さらに、江戸時代後期に成立した『備中国大吉備津宮略記』には「温羅」という名前が登場します。この資料には温羅が百済の王であったことや、後に吉備津彦命の家臣となったことなども記されています。
現在知られる昔話『桃太郎』と温羅退治が、どのような過程で結びついたのかは明らかになっていませんが、岡山では古くから残る鬼退治の伝承を桃太郎の物語と結びつけ、地域の歴史や文化として受け継いでいます。
犬・猿・雉のモデルとされる家臣たち
岡山の伝承では、大吉備津彦命に従った家臣たちが、桃太郎のお供のモデルになったともいわれています。
| 桃太郎のお供 | モデルとされる人物 |
|---|---|
| 犬 | 犬飼健命 |
| 猿 | 楽々森彦命 |
| 雉 | 留玉臣命、 留玉姫など |
犬飼健命は、温羅退治の伝承に登場する家臣です。また、岡山出身の第29代内閣総理大臣・犬養毅は、犬飼健命の子孫と伝えられています。吉備津神社には犬養毅の銅像があり、社号標にも本人が揮毫した文字が使われています。
猿のモデルとされる楽々森彦命は、吉備地方の豪族で、大吉備津彦命による温羅討伐に協力した人物です。現在の岡山市北区には、楽々森彦命を祀っていた「楽々森様神社遺跡」が残っています。
雉のモデルについては、留玉臣命や留玉姫など、地域の伝承によって異なる名前が伝わっています。
大吉備津彦命ゆかりの神社・祀られている神社
大吉備津彦命は、吉備地方を中心に守護神として信仰されてきました。
特に岡山市の吉備津神社と吉備津彦神社は、大吉備津彦命と深い関係を持つ神社です。また、吉備地方の信仰は備後や讃岐にも広がり、現在も各地で祭神として祀られています。
吉備津神社(岡山県岡山市)
| 所在地 | 岡山県岡山市北区吉備津 |
|---|---|
| 御祭神 | 大吉備津彦命(大吉備津彦大神) |
| 主な信仰 | 延命長寿、産業守護、災難除け |
吉備津神社は、備中国一宮として知られる、大吉備津彦命を祀る代表的な神社です。
創建については、仁徳天皇が吉備を訪れた際に、大吉備津彦命の功績をたたえて社殿を建てたという伝承などが残っています。もともとは吉備国全体の総鎮守として信仰され、吉備国が備前・備中・備後に分かれた後も、備中国一宮として崇敬されてきました。
境内には、温羅退治の際に大吉備津彦命が矢を置いたと伝わる矢置岩や、鳴釜神事が行われる御竈殿が残っています。
現在の本殿・拝殿は1425年に再建されたもので、二つの屋根を並べた独特の「比翼入母屋造」が特徴です。吉備津造とも呼ばれるこの建築様式は全国的にも珍しく、本殿・拝殿は国宝に指定されています。
また、境内には長さ約360メートルに及ぶ回廊があり、御竈殿へと続いています。
毎年1月3日には矢立の神事が行われ、春と秋の大祭では七十五膳据神事が斎行されています。七十五膳据神事では、長い回廊を通って多くの神膳が運ばれ、神前へ奉納されます。
吉備津彦神社(岡山県岡山市)
| 所在地 | 岡山県岡山市北区一宮 |
|---|---|
| 御祭神 | 大吉備津日子命 |
| 主な信仰 | 厄除け、五穀豊穣、武運長久、長寿 |
吉備津彦神社は、備前国一宮として知られる神社で、吉備の中山の東側に鎮座しています。
大吉備津彦命が吉備を平定した後、暮らしていた屋敷跡に社殿が建てられたと伝わっています。
夏至の日には、正面の鳥居から昇る太陽の光が神殿の御鏡へ差し込むことから、「朝日の宮」とも呼ばれています。現在も夏至の日には日の出祭が行われ、昇る太陽を拝みながら感謝を捧げます。
境内には温羅の和魂を祀る温羅神社があり、温羅が吉備に製鉄文化をもたらしたという伝承も受け継がれています。
また、神社には1666年に奉納された大太刀「桃太郎祐定」が伝わっています。刃長約120センチメートルの大太刀で、岡山県の重要文化財に指定されています。
毎年8月には五穀豊穣を願う御田植祭が行われ、秋季例大祭では流鏑馬神事が奉納されています。
備後一宮 吉備津神社(広島県福山市)
| 所在地 | 広島県福山市新市町 |
|---|---|
| 御祭神 | 大吉備津彦命 |
| 主な信仰 | 開運招福、厄除け、交通安全、長寿 |
備後一宮 吉備津神社は、806年に備中国の吉備津神社から神様を迎えて創建されたと伝わる神社です。
大吉備津彦命は備後開拓の神様として崇敬され、地域の人々から「一宮さん」の名でも親しまれています。
現在の本殿は、1648年に初代福山藩主・水野勝成によって再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。
毎年11月には市立大祭が行われ、多くの参拝者で賑わいます。また、節分の夜には「ほら吹き神事」という珍しい行事も行われています。
ほら吹き神事は、大きなたき火を囲んだ参加者たちが、思い思いの大ぼらを披露する伝統行事です。ユーモアあふれる備後ならではの祭りとして知られています。
大吉備津彦命が祀られている主な神社
代表3社のほか、次の神社でも大吉備津彦命が祀られています。
| 神社名 | 所在地 |
|---|---|
| 田村神社 | 香川県高松市 |
讃岐国一宮の田村神社では、五十狭芹彦命という名前で祀られています。
同社には姉の倭迹迹日百襲姫命も祀られており、二柱がともに讃岐へ下り、農業や産業の発展に関わったという伝承が残されています。
