建御名方神は、大国主命の子として『古事記』の国譲り神話に登場する神です。建御雷神との力比べに敗れて諏訪へ移った神として知られますが、諏訪では雨風や水、農業、狩猟、開拓、武勇、勝負などを守る「お諏訪さま」として大きな信仰を集めてきました。
この記事では、建御名方神が何の神様なのか、ご利益や家族、建御雷神との戦い、「腕がない」「龍神」といわれる理由、祀られている神社まで分かりやすく紹介します。
建御名方神は何の神様?
建御名方神は、雨風や水、農業、狩猟、開拓、武勇、勝負などを守る神です。長野県の諏訪地方を中心に「諏訪大神」「諏訪大明神」「お諏訪さま」と呼ばれ、その信仰は全国各地へ広がっています。
『古事記』では、大国主命の子として国譲り神話に登場します。高天原から国を譲るよう求めに来た建御雷神へ力比べを挑みますが敗れ、科野国の州羽海、現在の諏訪湖まで追われました。そこで国譲りを受け入れ、この地から出ないことを誓います。
諏訪に鎮まった建御名方神は、信濃を開拓した力の強い神として信仰されるようになりました。雨や風、水を司る力は農業や航海の守護へ広がり、山野で暮らす人々からは狩猟の神としても信仰されました。
武勇の神としての信仰も古く、中世には武士から篤く崇敬されます。鎌倉時代以降は源頼朝や北条氏、足利尊氏、武田信玄、徳川家康などとも結びつき、諏訪大神は武家の守護神として全国へ広まっていきました。
現在、諏訪大神を祀る神社は全国に約1万社あるとされます。『古事記』では建御雷神に敗れた神ですが、その後の信仰では、自然と暮らしを守り、土地を開き、戦いを守る大きな神へと信仰が広がっています。
建御名方神は龍神なの?
建御名方神は、諏訪信仰では龍神とも深く結びついています。
ただし、『古事記』の国譲り神話で建御名方神が龍の姿を見せるわけではありません。そこでは大国主命の子として建御雷神と戦い、諏訪へ移る神として描かれています。
一方、諏訪では古くから雨や風、水を司る神として信仰され、その中には龍神としての信仰もあります。水の神としての信仰は農業だけでなく海上安全にも広がり、港の近くに諏訪神社が祀られる例もあります。
そのため、建御名方神は『古事記』で龍神として登場する神ではなく、後の諏訪信仰の中で龍神としても信仰されている神とされています。
建御名方神の別名・読み方
建御名方神は「たけみなかたのかみ」と読みます。神社や信仰では、建御名方命、建御名方大神などの表記も使われています。
| 区分 | 名称 |
|---|---|
| 基本表記 | 建御名方神(たけみなかたのかみ) |
| 別表記 | 建御名方命、建御名方大神 |
| 信仰上の呼称 | 諏訪大神、諏訪大明神、お諏訪さま |
『延喜式』神名帳には、現在の諏訪大社にあたる神社が「南方刀美神社」と記されています。建御名方神の信仰が、古くから諏訪の地に根付いていたことが分かる記録の一つです。
建御名方神の御神格・ご利益・ご神徳
建御名方神には、雨風や水を司る自然神としての性格と、農業・狩猟・開拓など人々の暮らしを守る神としての性格があります。さらに中世には武家から篤く信仰され、武勇や勝負を守る神としても広く知られるようになりました。
建御名方神の御神格
| 御神格 | 風雨の神、水の神、農耕神、狩猟神、開拓神、武勇・勝負の神 |
|---|
建御名方神の信仰は、諏訪の自然と人々の暮らしに深く結びついています。雨や水は作物を育てる一方、風雨が荒れれば生活を脅かす力にもなります。そのため、雨風や水を司る神への信仰は、五穀豊穣や農業を守る信仰にもつながりました。
狩猟との結びつきも諏訪信仰の特徴です。仏教の影響から殺生を避ける考えが広がった時代にも、諏訪ではお諏訪さまの神符を受けることで、生きるために鹿肉を食べることが許されるという信仰がありました。現在の諏訪大社でも「鹿食免」という神札が授与されています。
武勇の神としての信仰では、御射山の神事が大きく関わっています。鎌倉時代には全国の武将が御射山御狩神事に参加し、霧ヶ峰一帯で武芸を競いました。参加した武将が諏訪大神の御分霊を任地へ持ち帰って祀ったと伝えられ、諏訪信仰が各地へ広がる一つのきっかけにもなりました。
建御名方神のご利益
| ご利益 | 五穀豊穣、農業守護、狩猟守護、航海安全、勝負運・武運、開拓・産業発展 |
|---|
農業や五穀豊穣のご利益は、建御名方神が雨風や水を司る神として信仰されてきたことと結びついています。諏訪大社では現在も農作物の豊凶を占う筒粥神事など、農業と関係する神事が受け継がれています。
航海安全も水の神としての信仰から広がったものです。諏訪大社では、水への信仰が海の守り神へ発展し、港に近い土地にもお諏訪さまが祀られてきたとしています。
勝負運・武運は、武家の守護神として長く信仰された歴史と結びついています。源頼朝や武田信玄など多くの武将が諏訪大神を崇敬しており、現在も勝負を守る神として信仰されています。
建御名方神のご神徳
| ご神徳 | 雨風・水の守護、五穀を育む働き、国土開拓、暮らし・産業の守護、武勇・勝負の守護 |
|---|
建御名方神のご利益とご神徳は、雨や水を守る力が農業や航海の守護へつながり、諏訪を開拓した神という信仰が土地や産業を守る信仰へ広がっています。
また、武勇の神としての信仰は、『古事記』の力比べの伝承だけでなく、中世以降に多くの武将から崇敬され、武芸に関わる神事が行われたことによっても広がりました。こうして建御名方神は、武家の守護神や勝負の神として信仰されるようになりました。
建御名方神の母・奥さんは?家系図・関係する神々
建御名方神の父は大国主命です。母については『古事記』には名前が書かれていませんが、『先代旧事本紀』では高志沼河姫との間に生まれた神とされています。現在の諏訪大社でも、高志沼河姫命が「お諏訪さまの御母神」として祀られています。
奥さんにあたる妃神は、八坂刀売神です。諏訪大社でも建御名方神とともに重要な祭神として祀られています。
| 関係 | 神名・説明 |
|---|---|
| 父 | 大国主命 |
| 母 | 『古事記』では記載なし。『先代旧事本紀』では高志沼河姫 |
| 妃神 | 八坂刀売神 |
| 関係する神 | 事代主神。『古事記』では建御名方神とともに大国主命の子として国譲りに登場 |
| 御子神 | 諏訪信仰では多数の御子神が伝えられ、諏訪大社下社春宮・秋宮の若宮社では13柱を祀る |
八坂刀売神は建御名方神の妃神として信仰されています。諏訪大社では上社本宮に建御名方神、上社前宮に八坂刀売神が祀られ、下社春宮・秋宮では建御名方神、八坂刀売神、八重事代主神が祀られています。
諏訪には建御名方神の御子神とされる神々も多く伝えられています。下社春宮・秋宮の若宮社では、建御名方彦神別命、伊豆早雄命、妻科比賣命、須波若彦神など13柱が「お諏訪さまの御子神」として祀られています。
建御名方神と建御雷神の関係
建御名方神と建御雷神は、『古事記』の国譲り神話で力比べをした相手同士です。
建御雷神は、高天原の命を受けて大国主命へ国譲りを求めに来た神です。大国主命の子・事代主神が国譲りを認めた後、建御名方神が現れ、建御雷神へ力比べを挑みました。
建御名方神はこの勝負に敗れ、諏訪まで追われて降伏します。二柱は家族ではなく、国譲りを進める側と、それに力で抵抗した側という関係です。
建御名方神の神話・伝承
建御名方神を代表する神話が、『古事記』に記された国譲りです。巨大な岩を持って現れた建御名方神は建御雷神へ力比べを挑みますが敗れ、出雲から諏訪まで追われることになります。
巨石を掲げた建御名方神――建御雷神との力比べ
以下は、原典で確認できる出来事をもとに、現代の読み物として意訳・再構成しています。原文の逐語訳ではありません。
出雲の伊耶佐の小浜で、国の行方を決める話し合いが続いていた。大国主命の子・事代主神は、すでに国を高天原へ譲ることを受け入れている。だが、大国主命にはもう一柱、答えを聞かなければならない子がいた。
建御名方神だった。
轟くような足音とともに、その神は姿を現した。手の上には千引石――千人がかりで引くほど巨大な岩が持ち上げられている。建御名方神は岩を掲げたまま、父の国を譲れと迫る建御雷神をにらみつけた。
「誰だ、俺の国へ来て、こそこそと話をしているのは。ならば力比べをしよう」
巨大な岩を持って現れた力自慢の神に、迷いはなかった。建御名方神は建御雷神へ近づき、先にその手を取った。真正面から力でねじ伏せるつもりだった。
だが、握ったはずの手の感触が変わった。
硬い。冷たい。建御雷神の手は立った氷のようになり、さらに鋭い剣の刃のように変わっていく。力を込めるどころではなくなり、建御名方神は思わず手を離して後ろへ退いた。
建御雷神が一歩前へ出る。
今度は建御名方神の手がつかまれた。建御雷神が力を込めると、若い葦を扱うように手をひしがれ、その勢いのまま身体を投げ飛ばされる。巨石を掲げて現れた建御名方神が、今度は自分の身体を大地へ叩きつけられた。
勝てない。
建御名方神は起き上がり、その場から逃げた。背後から建御雷神が追う。出雲を離れても追跡は終わらず、逃走は遠く科野国まで続いた。
やがて建御名方神は、州羽海――現在の諏訪湖まで追い詰められた。建御雷神はなお迫り、その命を奪おうとする。もう逃げる場所は残されていなかった。
建御名方神はついに敗北を認めた。
「殺さないでくれ。俺はこの地からほかへは行かない。父・大国主命の命にも、事代主神の言葉にも背かない。この国は天つ神の御子へ譲る」
力で国を守ろうとした建御名方神は、こうして国譲りを受け入れた。そして、自ら誓った通り諏訪の地にとどまることになる。
『古事記』での戦いは、建御名方神の敗北で終わる。しかし、建御名方神がたどり着いた諏訪では、やがて雨風や水、農業、狩猟、開拓、武勇を守る「お諏訪さま」として大きな信仰が育っていった。
⇒【國學院大學 古典文化学事業】『古事記』葦原中国平定⑥はこちら
建御名方神は腕がない?
建御名方神については、「建御雷神との戦いで腕を失った」といわれることがあります。『古事記』に「腕を切断された」「片腕を失った」と直接書かれているわけではありませんが、『古事記』にある力比べの場面の読み方から生まれた説とされています。
『古事記』では、建御雷神が建御名方神の手を取り、若い葦を扱うように「つかみひしぎて投げ離した」と記されています。この部分は、建御名方神の手をひしぎ、そのまま建御名方神自身を投げ飛ばしたと読むことができます。一方で、手や腕をひしぎ取って投げ捨てたとする解釈もあります。
この後者の解釈から、「建御名方神は腕を失った」「片腕のない神」という話が広がったと考えられます。
諏訪で洩矢神と争った伝承
建御名方神が諏訪へ来た後については、『古事記』とは別の伝承もあります。
1356年に成立した『諏訪大明神絵詞』には、諏訪へ入った建御名方神と、その土地にいた洩矢神が争ったという話が伝えられています。洩矢神は鉄輪、建御名方神は藤の枝を持って争い、建御名方神が勝ったとされます。
『古事記』では建御雷神に敗れて諏訪へ来た神ですが、こちらでは諏訪へ入って土地の神と争い、勝利する神として描かれています。
建御名方神ゆかりの神社・祀られている神社
建御名方神の信仰の中心は、長野県の諏訪大社です。諏訪信仰はその後、武士の活動や各地への御分霊の勧請、人々の移住などによって全国へ広がり、現在では北海道から鹿児島まで約1万社の諏訪大神を祀る神社があるとされています。
同じ建御名方神を祀る神社でも、土地によって武勇、農業、開拓、水、地域の守護など、強く表れる信仰には違いがあります。
諏訪大社
長野県の諏訪湖周辺に鎮座する諏訪大社は、全国の諏訪神社の総本社です。諏訪湖の南側に上社前宮・本宮、北側に下社春宮・秋宮の四宮があり、本宮では建御名方神、前宮では八坂刀売神、春宮・秋宮では建御名方神、八坂刀売神、八重事代主神が祀られています。
本宮・春宮・秋宮には本殿がなく、山や御神木など自然そのものをご神体とする古い信仰の形が残っています。境内外には70余りの摂社・末社があり、年間200を超える神事が行われています。
特に有名なのが、寅年と申年に行われる式年造営御柱大祭です。巨大な樅の木を山から曳き出し、四つの宮の境内に御柱として建てる諏訪大社最大の祭儀で、式年造営の歴史は1200年以上に及びます。
建御名方神の神話だけでなく、農耕、狩猟、水、武勇などへ広がった諏訪信仰を現在まで伝えている中心的な神社です。
札幌諏訪神社
北海道札幌市の札幌諏訪神社では、建御名方命と妃神の八坂刀売命を祀っています。
明治時代、信濃から北海道へ移住した上島正らがこの地を開墾し、1882年に故郷の諏訪大社から御分霊を迎えて祀ったことに始まります。その後、札幌の地域を守る神社として信仰されてきました。
諏訪では国土開拓や人々の生活を守る神として信仰された建御名方神が、北海道を新しく開拓する人々によって祀られた例です。諏訪信仰が、人々の移住とともに北海道まで運ばれたことが分かります。
札幌諏訪神社では建御名方命と八坂刀売命を夫婦神として祀ることから、現在は縁結び、夫婦円満、子授け、安産などの信仰もあります。これは建御名方神単独の全国共通のご利益ではなく、札幌諏訪神社での夫婦神信仰と結びついたものです。
本渡諏訪神社
熊本県天草市の本渡諏訪神社では、建御名方神、八坂刀売神、八幡大神を祀っています。
神社の由緒では、1274年と1281年の元寇の際、天草の水軍が諏訪大明神の加護を受けて戦ったことに感謝し、1283年に信州諏訪から御分霊を迎えたことが始まりとされています。中世に諏訪大明神が武勇の神として信仰されていたことを伝える神社の一つです。
江戸時代には、天草・島原の乱後に荒れた地域の復興を進めた代官・鈴木重成のもとで神社も再建されました。例大祭に合わせて開かれた農具市は、やがて生活用品まで扱う「本渡の市」へ発展し、地域の暮らしや産業とも深く結びついていきました。
武神として迎えられた諏訪大神の信仰が、長い歴史の中で地域の生活や産業を守る信仰へ広がっていったことが分かる神社です。
建御名方神が祀られている主な神社
| 神社名 | 住所 |
|---|---|
| 四日市諏訪神社 | 三重県四日市市 |
| 高津諏訪神社 | 神奈川県川崎市 |
| 新発田諏訪神社 | 新潟県新発田市 |
| 十日町諏訪神社 | 新潟県十日町市 |
| 鎮西大社 諏訪神社 | 長崎県長崎市 |
建御名方神の信仰は、諏訪から各地へ移された後も、その土地の産業や歴史と結びつきながら受け継がれています。
