日本武尊は、景行天皇の皇子として『古事記』『日本書紀』に登場する古代の英雄です。熊襲討伐や東国への遠征など数多くの戦いが伝えられ、後世には武の神、勝運・必勝の神として各地で祀られるようになりました。
一方、その生涯には華々しい勝利だけでなく、父との関係、弟橘比売命との死別、伊吹山での敗北、故郷へ戻れないまま迎えた死も描かれています。死後には白い鳥となって飛び立ったという有名な伝承も残されています。
ここでは、日本武尊とはどんな人物なのか、読み方や家族、草薙剣にまつわる神話、ご利益、紙幣に描かれた歴史、現在祀られている神社までわかりやすく紹介します。
日本武尊は何の神様?
日本武尊は、景行天皇の皇子として記紀に登場し、死後はその武勇から武の神・英雄神として祀られるようになった人物です。
『古事記』では、もとの名を小碓命といい、熊襲討伐を経て「倭建命」と呼ばれるようになります。その後も父の景行天皇から東国平定を命じられ、草薙剣を携えて各地を巡ります。
日本武尊の人物像は、『古事記』と『日本書紀』で少し違います。『古事記』では、兄の大碓命を手足をもぎ取って殺してしまうほど荒々しい若者として登場し、その強さを恐れた父から遠征を命じられます。東征前には「父は自分に死んでほしいと思っているのではないか」と叔母の倭比売命へ嘆く場面もあり、悲劇的な英雄としての姿が強く描かれています。
一方、『日本書紀』では、景行天皇から信頼され、国を平定する武人としての性格が強くなっています。同じ日本武尊でも、どちらの記録を読むかによって受ける印象はかなり違います。
現在は日本武尊を祭神とする神社が各地にあり、武勇にちなむ勝運・必勝のほか、開運、厄除け、災難除け、出世などの信仰も伝えられています。
日本武尊は天皇だった?
日本武尊自身は天皇ではありません。第12代・景行天皇の皇子で、日本武尊の子である帯中津日子命が、後に第14代・仲哀天皇となりました。
日本武尊は景行天皇より先に亡くなり、その後、異母弟の成務天皇が皇太子となって、景行天皇の次の天皇に即位しています。
ただし、日本武尊と「天皇」の関係には少し面白い点があります。
『常陸国風土記』では、日本武尊にあたる人物が「倭武天皇」と記されています。常陸国を巡った人物として何度も登場し、地名の由来などにも深く関わっています。
また、『古事記』『日本書紀』でも、日本武尊の死には天皇に使われる「崩」、墓には「陵」といった表現が使われるなど、天皇に近い扱いを受けている部分があります。
そのため、日本武尊は歴代天皇には数えられていないものの、古い伝承の中では非常に高い身分の人物として扱われていました。
日本武尊は実在した?
日本武尊が、実際に一人の人物として存在したのかは分かっていません。
現在は、日本武尊の物語について、大和王権が各地へ勢力を広げていく過程で活躍した複数の武人や、各地に残っていた伝承が、一人の英雄の物語としてまとめられた可能性があると考えられています。
三重県も、日本武尊について、西や東へ勢力を広げた時代の複数の勇者の話を一人の英雄へまとめた伝説とする見方を紹介しています。
また、日本武尊が亡くなったと伝えられる三重県亀山市の能褒野には、「能褒野王塚古墳」と呼ばれる大型の前方後円墳があります。4世紀末ごろに築かれたと考えられ、この地域に大和王権と深い関係を持つ有力者がいたことがうかがえます。
現在、この古墳は宮内庁によって「日本武尊能褒野墓」とされています。
日本武尊の読み方・別名
「日本武尊」は、一般に「やまとたけるのみこと」と読みます。
ただし、『古事記』と『日本書紀』では表記が異なります。また「ヤマトタケル」という名前も、生まれたときから使われていたものではありません。
| 『日本書紀』 | 日本武尊 |
|---|---|
| 『古事記』 | 倭建命 |
| もとの名 | 小碓命 |
『古事記』では、小碓命が熊襲の兄弟を討った際、最後に残った熊曾建が小碓命の強さを認め、自らの「建」の名を贈ります。
こうして小碓命は「倭建命」と呼ばれるようになったとされています。
日本武尊の御神格・ご利益・ご神徳
日本武尊は、熊襲討伐や東国遠征などの武勇から、武の神・英雄神として信仰されています。
現在、日本武尊を祀る神社では、勝運や必勝をはじめ、開運、厄除け、災難除け、出世などさまざまなご利益が伝えられています。ただし、具体的なご利益は神社によって異なります。
日本武尊の御神格
| 御神格 | 英雄神、武の神 |
|---|
日本武尊の中心となる神格は、数多くの戦いを経験した武人としての性格です。
熊襲討伐では女装して敵の宴へ入り込み、相手が油断したところを討ちます。東征では敵の火攻めを受けながら、草薙剣と火打ち石を使って危機を切り抜けました。
こうした武勇の伝承を持つことから、現在も日本武尊は武や勝負に関わる神として祀られています。
日本武尊のご利益
| ご利益 | 勝運、必勝、開運、厄除け、災難除け、出世など |
|---|
日本武尊の信仰で特に知られているのが、勝運や必勝です。
日本武尊は熊襲を討ち、東国へ遠征し、何度も命の危機を切り抜けた英雄として描かれています。その武勇から、戦いや勝負に力を授ける神として信仰されるようになりました。
現在では戦そのものだけでなく、仕事、受験、スポーツなどで勝負に臨む人の信仰にもつながっています。
また、建部大社では開運・厄除・災難除・出世・必勝が日本武尊の御神徳として案内されています。日本武尊が幾度も危機を乗り越えた伝承は、災いを避けて道を開く信仰とも結びついています。
日本武尊のご神徳
| ご神徳 | 武運守護、勝運、開運、厄除け、災難除けなど |
|---|
日本武尊のご神徳は、武勇と危機を乗り越えた伝承をもとに広がっています。
中でも相模国での火攻めは、日本武尊の代表的な危機です。周囲の野へ火を放たれた日本武尊は、倭比売命から授けられた草薙剣で草を薙ぎ、袋に入っていた火打ち石で向かい火をつけて脱出しました。
勝つことだけでなく、命に関わる災難から生き延びた人物としての姿も、日本武尊への信仰に残っています。
日本武尊の家系図・関係する神々
日本武尊は、第12代・景行天皇の皇子です。『古事記』では、母を針間之伊那毘能大郎女とし、大碓命も同じ母から生まれた兄弟として記されています。
| 関係 | 人物 |
|---|---|
| 父 | 景行天皇 |
| 母 | 針間之伊那毘能大郎女 |
| 同母兄 | 大碓命 |
| 叔母 | 倭比売命 |
日本武尊の妻と子
『古事記』では、日本武尊には複数の妻と六柱の子が記されています。
| 妻・母 | 子 |
|---|---|
| 布多遅能伊理毘売命 | 帯中津日子命(後の仲哀天皇) |
| 弟橘比売命 | 若建王 |
| 布多遅比売 | 稲依別王 |
| 大吉備建比売 | 建貝児王 |
| 山代之玖々麻毛理比売 | 足鏡別王 |
| 母の名は記されていない | 息長田別王 |
このうち帯中津日子命は、後に第14代・仲哀天皇となりました。
また、東征の物語では弟橘比売命と美夜受比売が特に大きな役割を持ちます。弟橘比売命は走水の海で自ら海へ身を投じ、美夜受比売は東征から戻った日本武尊と結ばれ、草薙剣を預かることになります。
なお、家族関係には『古事記』と『日本書紀』で違いがあります。ここでは主に『古事記』の系譜をもとに整理しています。
日本武尊の神話・伝承
日本武尊の物語は、熊襲討伐、東国遠征、弟橘比売命との別れ、伊吹山での敗北、能煩野での死、そして白い鳥となって飛び立つ最期へ続いていきます。
中でも東征から死までの物語には、勝ち続けてきた英雄が愛する人を失い、最後には自身も力尽きるまでが描かれています。
「ヤマトタケル」の名を得た熊襲討伐
日本武尊は、もともと小碓命という名でした。
『古事記』では、父の景行天皇が小碓命の荒々しさを恐れ、九州の熊曾建兄弟を討つよう命じます。
小碓命は髪を下ろし、叔母から借りた衣服をまとって少女の姿になりました。そして熊曾建兄弟が宴を開いている屋敷へ入り込みます。
若い少女だと思った兄弟は小碓命を近くへ座らせました。
宴が進み、二人が完全に油断したところで、小碓命は隠していた剣を抜きます。
まず兄を刺し殺し、逃げ出した弟を追いました。
弟の熊曾建も背中から剣を突き立てられます。
死を目前にした熊曾建は、自分たちより強い男が倭国にいたことを認めました。そして自らの「建」の名を贈り、小碓命を「倭建御子」と呼びます。
こうして小碓命は、倭建命となりました。
草薙剣を手に東国へ――日本武尊の東征と白い鳥の最期
以下は、原典で確認できる出来事をもとに、現代の読み物として意訳・再構成しています。原文の逐語訳ではありません。
熊襲を討ち、出雲建を倒し、倭建命はようやく大和へ戻ってきた。
だが、待っていたのは休息ではなかった。
父・景行天皇は、今度は東方十二道の荒ぶる神と従わない者たちを平定せよと命じた。
また戦えというのか。
倭建命は伊勢へ向かい、叔母の倭比売命を訪ねた。そこで、ずっと胸の奥に押し込めていた言葉があふれた。
「父上は、私など死んでしまえばいいと思っているのだろうか」
西へ行けと言われた。戻れば、今度は東へ行けと言われる。
倭比売命は、その嘆きを受け止めた。そして倭建命へ草薙剣を授け、さらに一つの袋を持たせた。
袋の中には火打ち石が入っていた。
倭建命は再び東へ向かった。
尾張では美夜受比売と出会い、帰ってきたら結婚しようと約束する。そしてさらに東へ進んだ。
相模国で、倭建命は敵の罠にはまった。
野へ誘い込まれた直後、周囲から火をつけられた。
乾いた草を舐めるように炎が広がる。赤い火の壁が四方から迫り、熱気で息をすることすら苦しくなっていく。
逃げ道はない。
倭建命は草薙剣を抜いた。
足元の草を薙ぎ払い、倭比売命から渡された袋を開く。中から火打ち石を取り出し、自らも火を放った。
向かい火が燃え広がり、炎の流れが変わる。
倭建命は焼け死ぬ寸前で炎の囲みを破った。そして、自分を焼き殺そうとした者たちを逆に焼き滅ぼした。
だが、東征で倭建命が失うものは、自分の血だけではなかった。
走水の海を渡ろうとしたとき、海の神が荒れ狂った。
風が唸り、波が船へ叩きつけられる。船は進まず、このままでは海に呑まれる。
倭建命の妻、弟橘比売命が立ち上がった。
「私が御子の代わりに海へ入りましょう。御子は任務を果たし、天皇へご報告ください」
止める間もなく、弟橘比売命は海へ身を投じた。
荒波の中へ、その姿が消えた。
やがて海は静まった。船は先へ進めるようになった。
倭建命は生き残った。だが、弟橘比売命は戻らない。
七日後、海辺へ流れ着いたのは彼女の櫛だけだった。その櫛を納め、墓が作られた。
倭建命はなおも東へ進み、荒ぶる者たちを平定していった。
帰路、足柄の坂へ来たとき、倭建命は弟橘比売命を思い出した。
「あづまはや――我が妻よ」
もう返事をする人はいない。
長い東征を終えた倭建命は、ようやく尾張へ戻った。約束していた美夜受比売と結ばれる。
ここには、東征の炎から自分を守った草薙剣もあった。
それでも倭建命は、また戦いへ向かった。次の相手は伊吹山の神だった。
「この山の神程度なら、素手でも倒せる」
倭建命は草薙剣を美夜受比売のもとへ置き、何も持たず伊吹山へ入った。
山中で、巨大な白い猪が現れた。
倭建命はそれを山の神の使いだと思った。
「神を討ったあとで、この猪も始末すればいい」
そう言い放ち、先へ進んだ。
だが違った。その白い猪こそ、伊吹山の神だった。
倭建命は神の力によって惑わされ、身体を病に侵された。
それまで熊襲を討ち、炎を抜け、東国を平定してきた身体から、急速に力が失われていく。
それでも倭建命は大和を目指した。
一歩進むだけで身体が重い。足は思うように上がらない。
それでも歩いた。故郷へ帰るために。
旅の途中、倭建命は大和を懐かしむ歌を詠んだ。
故郷は近づいているはずだった。だが身体は、もう限界だった。
伊勢の能煩野までたどり着いたところで、倭建命は倒れた。
最後には、美夜受比売のもとへ置いてきた草薙剣を思う歌を詠んだ。
そして息を引き取った。
知らせを聞いた妻や子どもたちが大和からやって来た。墓が築かれた。
家族は地面を這うように泣き、死者を悼む歌をうたった。
そのときだった。
墓から大きな白い鳥が飛び立った。
家族は泣きながら、その鳥を追った。足が傷ついても、海へ入っても、追い続けた。
白い鳥は空を飛び、河内の志幾へ降り立った。
そこにも墓が作られ、「白鳥御陵」と呼ばれた。
だが、鳥はそこにも留まらない。
再び空へ舞い上がると、そのまま天へ飛び去っていった。
戦いに明け暮れ、最後まで故郷へ帰ろうとした倭建命は、死んだあとも空を飛び続けた。
日本武尊はお札になった?
日本武尊は、かつて日本銀行券にも描かれています。
1945年8月に発行された「甲千円券」です。図柄には日本武尊と建部神社が使われました。建部神社は現在の建部大社です。
甲千円券に描かれた日本武尊は、日本銀行の資料でも「景行天皇の皇子」「大和朝廷による地方平定の勇者として伝えられる人物」と説明されています。
この紙幣は1946年3月2日に通用を停止しました。
現在の紙幣では近代以降の人物の肖像がよく知られていますが、日本武尊のように記紀の英雄が日本銀行券へ描かれた例もあります。
日本武尊ゆかりの神社・祀られている神社
日本武尊は、現在も全国各地の神社で祀られています。
直接祭神として祀る神社だけでなく、草薙剣、東征、白鳥伝承、創建伝承などを通して深く関わる神社もあります。
建部大社
滋賀県大津市の建部大社は、日本武尊を祀る代表的な神社です。
日本武尊と大己貴命を祭神とし、日本武尊については開運・厄除・災難除・出世・必勝の御神徳が案内されています。
社伝では、日本武尊の死後、父の景行天皇がその功績をたたえ「建部」を定め、日本武尊を祀ったことを創建の始まりとしています。その後、現在の瀬田の地へ移され、近江国一之宮として信仰されてきました。
1945年発行の甲千円券に、日本武尊と当時の建部神社が描かれたことでも知られています。武の神としての日本武尊の信仰と、紙幣の歴史の両方に関わる神社です。
大鳥大社
大阪府堺市の大鳥大社では、日本武尊を主祭神として祀っています。
大鳥大社の由緒は、日本武尊の白鳥伝承と深く結びついています。日本武尊の御霊が八尋の白鳥となってこの地へ飛来し、その場所に一夜で木々が生い茂ったと伝えられ、境内は「千種の森」と呼ばれています。
一方、祭神をめぐっては歴史の中で変化がありました。明治期には大鳥連祖神が祭神とされましたが、昭和36年に日本武尊が再び増祀され、現在は日本武尊を主祭神とする二座の神社となっています。
現在も日本武尊の勝運・勝負運にちなんだ「勝守」が授与され、毎年3月15日には日本武尊の増祀を記念する祭りが行われています。
熱田神宮
愛知県名古屋市の熱田神宮は、日本武尊と草薙神剣の伝承に深く関わる神社です。
熱田神宮の主祭神は熱田大神で、日本武尊は天照大神、素盞嗚尊、宮簀媛命、建稲種命とともに相殿神として祀られています。
日本武尊は東征で草薙神剣の力によって火攻めを切り抜けました。その後、尾張へ戻ると宮簀媛命のもとへ草薙神剣を残して伊吹山へ向かい、能褒野で亡くなります。
残された神剣を宮簀媛命が熱田の地へ祀ったことが、熱田神宮の創祀につながったと伝えられています。
日本武尊を直接祀るだけでなく、日本武尊の生涯を代表する草薙神剣そのものと深く結びついた神社です。
日本武尊と三峯神社の関係は?
埼玉県秩父市の三峯神社には、日本武尊が創建に関わったという伝承があります。
三峯神社では、東国平定へ向かっていた日本武尊が三峯山へ登り、伊弉諾尊と伊弉冉尊を祀ったことを神社の始まりとしています。
このとき、日本武尊を山中で案内したのが狼だったと伝えられています。
そのため三峯神社では狼を神の使いとして祀り、「お犬さま」「山犬」「御眷属様」などと呼んできました。
日本武尊は三峯神社の主祭神ではありません。三峯神社との関係は、東征中の創建伝承と狼信仰にあります。
日本武尊が祀られている主な神社
日本武尊は、このほかにも各地の神社で祀られています。
| 神社名 | 住所 |
|---|---|
| 鷲神社 | 東京都台東区 |
| 皆中稲荷神社 | 東京都新宿区 |
| 中之嶽神社 | 群馬県甘楽郡下仁田町 |
| 妙義神社 | 群馬県富岡市 |
| 來宮神社 | 静岡県熱海市 |
| 氣比神宮 | 福井県敦賀市 |
日本武尊の伝承は九州から東国、尾張、伊勢、近江、河内まで非常に広い地域に残っています。
そのため、日本武尊への信仰も一つの土地だけに集中しているわけではありません。武の神として祀る神社、東征の足跡を伝える神社、白鳥となった後の伝承を残す神社など、それぞれ違った形で日本武尊の物語が受け継がれています。
